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PASSION アルゼンチンの延長戦

アルゼンチン再入国

 ユバからサンパウロへ戻った翌日、私は巨大なバスターミナルにいた。
 再度、アルゼンチンに行くことを決めていたのだ。ブエノスアイレスでお世話になった文野さんに、1月9日に行われるウルキーサ移住地での盆踊りを観ることを、強く勧められていたのである。パラグアイへも訪問予定がある私。地理からしても再度の南下は遠回りではなかった。
 サンパウロからブエノスアイレスまではバスで36時間。8日にはブエノスアイレスに着きたい。乗れれば今夜、そうでなくても明日には出発する必要があった。
 地下鉄に乗り、国外へのバスが発着するチエテバスターミナルへ向かった。
 通勤ラッシュになろうかという時間に入っていたため人の行き来がかなり激しい。チエテバスターミナルはブラジル最大の長距離バスターミナルで、1階には約100本のバス乗り場、2階にはチケット販売窓口やカフェ、売店等が賑やかに入っている。
 ブエノスアイレス行きのバスを出しているPluma社の販売窓口へ。明日の夜に出発するバスを予約することができた。ブエノスアイレス到着は、1月8日。
 この日はサンパウロの東洋人街にある日系人が営む宿に泊まることにした。宿がある坂道を下っていくと、鈴蘭の形をした灯籠が目に入り、足元を見れば家紋のような柄の入ったコンクリートの歩道が「和」を思わせる。
信号を二つほど過ぎる手前に「ブラジル日本移民史料館」の看板が見えた。資料館のある9階建てのビルがブラジル日伯文化協会である。
文協の交差点を左に折れれば東洋人街の中心へ入っていく。「イラッシャイマセ金澤」「マッサージ」「ラーメンあすか」。次々と日本語の文字が現れて懐かしい感覚にとらわれていく。東洋人街と呼ばれるだけに、中国人や韓国人が経営する店も多いものの、赤い大鳥居にかかっている大阪橋はリベルダージのシンボルだ。
「明けましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いしますね」
こんな挨拶も聞こえてきた。
二度目のアルゼンチンをめざして、36時間のバス旅へ!

バスに乗ってだいぶ時間が過ぎた。

朝6時半、車窓から空を見るとスッカラカンに晴れていた。草原をひたすら走る。アルゼンチンの国旗がブルーの空に、気持ち良さそうにたなびいている。
ブエノスアイレスのバスターミナルに到着したのは11時。前回と同じ宿に滞在するため、地理もわかり、不安のないブエノス滞在。
「おー!そろそろ戻って来る頃だと思っていたよ」
文野さんにも再会し、明日の待ち合わせの確認をした。

BON―ODORIの大感動 日本の文化は素晴らしい


1月8日、雲ひとつない快晴だった。宿では扇風機が回っていて、盛夏であることを告げている。
16時半、文野さんの車に乗せてもらって3度目のウルキーサ移住地へ。
ウルキーサに近づくと「BON―ODORI」の看板があちこちに掲げられていた。会場はラプラタ日本語学校の敷地である。やぐらが組まれ、色とりどりの提灯がぶら下がっていた。「やきめし」「カキ氷」「焼き鳥」「うどん」「春巻き」。日本と変わらない屋台の数々。まさに日本の祭りがウルキーサで始まろうとしていた。文野さんのお姉さんは浴衣を着て、片手にうちわを持っている。
「適当にブラブラしますね」
文野さんはスポンサーであることもあり、挨拶回りに忙しそうだった。ひとりで会場をぶらぶらしていると、文野さんの球友である中島さんに遭遇した。
「おー、元気だったか。来週パラグアイで野球大会があるみたいだよ。場所はピラポ移住地だって。行ってみたらいいよ」
ちょうどいい。このあとの行き先はパラグアイだ。ピラポに行こう。

農家だという日系人夫婦は、きゅうりやミョウガなどの新鮮野菜と手作りのえびせんを売っていた。えびせんをポリポリ食べながら、金魚すくいをのぞいてみた。
子どもも大人も紙でできたすくい網と茶碗を持って、金魚と真剣勝負をしている。真剣な表情と興味津々の見物客。アルゼンチーナと日系人が混じっていて、その光景がおもしろい。
夕暮れを過ぎた薄暗い空の下、やぐらとちょうちんがほのかに輝き始めていた。時間が経つにつれて、やぐらの周りに用意された見物席は満席に近づいていった。


ラプラタの、すてきなすてきな盆踊り。

19時半、盆踊りが始まった。「アラレちゃん音頭」「ジンギスカン」「キヨシのズンドコ節」「炭坑節」などの曲目が、続々と流れていく。浴衣を着た日系人のおじちゃん、おばちゃん、子どもたち。千羽鶴を耳にさしたハンサムなアルゼンチーナやハッピを羽織ったアルゼンチーナ。やぐらを囲む大きな輪。みんながみんな、とびっきりの笑顔で盆踊りを楽しんでいる。
最初は見ていただけの人も輪の中に入り始めた。ラテンなノリは生まれつき。踊りのセンスも生まれつき。あっという間に盆踊りをマスターしていくアルゼンチンチーナ。
私も見ているだけだったのだが体がうずうずしてきてしまい、輪に飛び込んだ。盆踊りは中学生のときに体育祭で踊ったのが最後だっただろう。すっかり踊り方を忘れていて、前の人の動きをまねするが、私はうまく踊れない。
「この輪のなかで一番ヘタかもしれない」
そう思ってしまうほど、周りの人たちが見事な盆踊りをしていたのだ。

―休憩。屋台めぐりをしていた。来賓席では文野さんが楽しそうにおしゃべりしている。浴衣売り場では「とてもキレイね」と、購入を検討するアルゼンチーナの姿もあった。
焼き鳥を売っている場所からは、炭火のこんがりとしたいい匂いが漂っていた。ハッピを着た日系のおじさんたちが手を休めることなく、大量に焼き鳥を仕込んでいる。
日本で食べる焼き鳥の二倍くらいの大きさだった。味は最高。メイド・イン・アルゼンチーナの焼き鳥が、これまで食べた焼き鳥なかでナンバーワンだ。
 再び盆踊りが始まった。焼き鳥と缶コーラを持って見物していると、子ども連れのおばちゃんに話しかけられた。
 子どもが持っている千羽鶴を指さして
「ORIGAMI no?」(これは折り紙でしょ?)
 「Si,Si,Japon Caltural!」(そうです、日本の文化です!)


この盆踊りは州の公式行事にも指定されているため、ラプラタ市長も来賓として呼ばれていた。もちろん市長はアルゼンチンチーナ。今年で11回目というウルキーサの盆踊り。来場者数は総勢一万人だと言われている。
日本人に生まれて良かった。盆踊りがある日本文化を誇りに思った。
22時半過ぎ、市長の挨拶や花束贈呈が行われたあと、ドカーンと大きな花火が数十発、打ち上げられた。
アルゼンチン・ウルキーサ移住地の空に咲いた大きな花火。あちこちから感歎の声が聞こえてきた。


私が中学生の頃までは、育った町の区でも盆踊り大会が毎年行われていたのだが、子どもが減り、町の行事は廃れてしまい、盆踊りは消えた。
だが一方で、外国で、日本の伝統行事や文化がこんな風にメキメキと根を張り巡らせているのである。
それはそれで素敵なことだし嬉しいのだが、悔しさもある。
「海外に負けてしまっていないだろうか。盆踊りを盛り返したい!」
そんな風に思っていた。
祭りは深夜2時くらいまで盛り上がるという。道端には、駐車場に止めきれない車が行列をなして駐車していた。

南米の夏、ニッポンの大きなカケラが輝かしい光を放っていた。
“大感動”が私の心を渦巻いた。

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