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情報量


この前の記事でもチラっと書いたけど、描かれ過ぎってつまんないんだな、って思うようになりました。

描くと一言で言っても多岐にわたるんですけど、文章よりも絵があるもの、絵があるものよりも絵が動くもの、絵が動くものに音声が加わったもの…

近年では3D、4Dなど、どんどん自分のイマジネーションを使わなくても楽しめる作品が増えてきていますが、何においても、伝えられる情報量が多い作品って、それ以上でも以下でもなくなってしまう可能性が高いんだと感じるようになったんですよね。


多分、かつての私は
『○○はこうあるべき!』
『○○はこうでないといけない!』
など、強い強い思い込みを沢山抱えていたせいで、多くを描かれた作品の方が
『この作品はこういうことを伝えたいんだな!』
という部分を理解できていたのだと思います。

思い込みが強い分、他の考え方もしっかりと書き込まれていないと伝わってこなかったように思うのです。

ところが近年は、様々な思い込みを捨て続けてきたことによって、語られ過ぎるよりも、含みや余白を使って、受け手の想像力に委ねられるような表現をなされている作品の方が、より楽しめるようになってきた気がしたということです。


原因が思い出せないのですが、私は
『文章を書くときは事細かくどんな人が読んでも伝わるように書かなければいけない。』
といったような思い込みを強く持っていました。

文章だけでなく、話す際も、
『より、相手に伝わるような話し方を心掛けて…。』
という感じで話す癖があります。(よっぽど仲の良い友人でない限り)

しかし、ブログを続けている内に、
『多分、語り過ぎって良くないんだろうな?読んでくれた人の頭の中で練って貰う方が大事なこともあるよな?』
と考えるようになってきました。

そして、
『うん、多分、読み手の頭の中で情報が補完されることで面白くなる作品が、良い作品なんだろうな?』
って、かなり確信に近いものを感じ始めたのです。

まぁそういうものを書けるかと言われたら書ける自信も無いんですけど、とにかく語り過ぎって良くないんだな、っていうことだけは理解したつもりです。


また、風が吹けば桶屋が儲かる的な理論になっちゃいますが、映像やデジタル、様々な部分で自分の脳をフル活用せずとも生きられる時代において、色んな人の頭を動かさせてあげるのも社会貢献の一部なんだと思います。

分かりにくいのとは少し違う、頭を働かせる必要のある作品というのは、遠回しに人々の幸せに貢献しているんだなって解ったんです。

自分の意思、意識を動かすことが自分の幸せに直結していきますからね。

受け取り手を受動的にさせ過ぎないことが、これからの世の中でとても重要になってくるのでしょう。


一方で、情報量が少ないということは、勘違いも生まれやすいため、注意が必要であるという点も忘れてはいけませんね。

勘違いさせてしまって、相手を怒らせてしまうケースもあると思います。

勘違いしてしまって、自分が怒ってしまうケースもあると思います。

様々なケースが想定できますが、常に
『自分の受け取り方に、偏りや歪みは無いのだろうか?』
と、振り返ることができる人が増えなければいけないという側面も忘れてはいけません。

より多くの人が自分の受け取り方を見直すことが、不毛な諍いを生まずに、各々にとって豊かさに繋がる部分のみを享受していくための最短ルートなのです。


よく、
「瞑想が大事。」
と言われますが、これは瞑想によって、余計な情報量をシャットアウトするのが大事だから、という理由も一部あるでしょう。

加えて、これからの時代を生きる上では【空想力】があることで、幅広い豊かさを得ながら生きていけるのだと思います。

・不必要な情報を遮断
・自らユニークな情報を生み出す

この2点を自在にできる人とできない人の幸福度の差が大きく開きやすくなっていくはずです。既に、開いているのかもしれません。

とにかく、気付いたときから主体的にイマジネーションを膨らませられるよう心掛けることで、簡単に人生の幸福度を高められる時代であるということなのでしょう。


まとまりの悪い書き方になってしまっていますが、[自らユニークなイマジネーションを生み出すこと]が最も大切なことで、それらを必ずしもアウトプットしなければいけないという訳でもないのだと思います。

アウトプットした方がより一層自分の生み出したイマジネーションを精査でき、新たなるイマジネーションを生み出しやすくなるのは事実かとは思います。

が、その生み出したイマジネーションを100%他人と共有しようとしなくても良くて、一部だけ共有して、後は受け取り手に委ねた方が、受け取った側が次に生み出す新たなイマジネーションの幅が広がり、より一層ユニークな世界が出来上がっていく、ということなのでしょう。

解釈の揃わない世の中、揃わない解釈を楽しむ世の中、そういう世界観に対応できる柔軟性を持っていた方が、面白い生き方ができるはずです。


だから、私たちは
・自分の中に入れる情報量
・不要になった情報量
・自分から生み出す情報量

それぞれのバランスにある程度気を配ることも、ときに大事なのではないでしょうか。

無意識に生きていると、受動的に情報を受け取るばかりになってしまいがちな現代だからこそ、主体的に情報(イマジネーション)を生み出す工夫はたまに必要なのだと思います。

何も0から1を生み出す程ハイレベルなことに取り組まなくても、たまに情報量の少ない作品を目にして、頭の中のイメージで情報を補完するところから始めれば充分、自分の世界観は広げられるでしょう。

ピンときた人は少しずつ取り組んでみてくださいね。


必ず、
[自分自身が自分の世界を生み出している]
という自覚と、楽しさを持って生きられる人が増えますように。

私もそうなれますように。

沢山のユニークな世界が生まれますように。



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