見出し画像

うた 宇宙(そら)のまにまに⑮

ハマナスの日に 逝くひとへ

見送って ようやくそのひとを 知れることが 有る
自分の中に 逝くひとの欠片を ぽつぽつと見つける初秋
暑かった夏と 共に
父(かれ)は この地球(ほし)を 
まるで 季節の約束事かのように さらりと 去っていった
酷暑のふた月に
ぎゅっと濃縮した 親子の時間
「お前のようなええ子は、他所にはいない」
最上級の誉め言葉で
「子ども過程」を 卒業させてもらえるとは
思いもしなかったご褒美だ
かつて
深く泥酔(よ)う 父(かれ)に
それはそれは苦しめられた数十年を経て
わたくしは 「幸せ」なるものを 自分の頭で考え 
多くの善きものを 手に入れた
苦しみを 豊かさに 変換し 学び 努める作業の 連続の先に
こんな総仕上げの夏が 待っているとは
知るべくもなかったのに
まるで 二人が 申し合わせたように
最期の時を和やかに語らう時間を得たことは
倖せ以外の何物でもないのだ
すべてのものごとに 感謝して
「お父さん どうぞ 安らかに」
と 夜半の月を 心穏やかに 見上げて祈る
その軽やかさに 笑みを浮かべながら

********************************** 

全く元気そのものだった父が、急に高熱を発し、4日間の自宅での看病の後、コロナでないからと受け入れられた病院での入院1週間目の早朝、亡くなってしまった。きっかりふた月、同居してご飯やおやつを作って身の回りも整えて、話し相手になってけんかもせずに、楽しくニコニコと暮らした。
こんな穏やかな時間があと何年も続くのだと思っていたのに、寝付いて10日ほどであっさりと逝ってしまった父。

今、わたくしは、ウソのような展開に只々呆気にとられている。父はハマナスの日でもある9月1日に旅立った。病院から葬儀場への搬送車にわたくしは同乗し、自宅の前で暫く停車してもらい、それまで覆われていた白布を取ってみると、薄く目を開けて自宅の方に父の顔が向いていた。(死後に首が動くことなどないのだと、人体の構造を良く知る知人から聞き、珍しいことと知れたのは一昨日)
実家は建設関係の親せきと父の作業で建てた、まさしくマイホーム。きっと父は此処にすぐ帰ってくるつもりで入院していただろう。楽しみなデイサービスを休まないといけないことを気にしていたくらいだから。「家に帰ってきたよ、お父さん」そう声をかけたかったけれど、言葉と一緒に涙が出てきそうなので、言えなかった。まだここでは泣けないとなぜだか決めていた。

物心ついた時から、父はひどい酒乱で、素面の時と飲酒時は、天使と悪魔のような変わりようだった。小学生の時に作文で「お父さんがお酒をやめますように」と書いたこともある。


しかし、後何十年もその願いはかなわず、家族はみんな苦労した。素面の父は優しく子煩悩で、人にも親切な恥ずかしがり屋のスタイルの良いイケメンだったから、わたくしはお酒が悪い、と父に酒を提供する酒屋を憎んでいた。

晩年の八年は、金銭の管理を父自身が手放してお酒を購入しなくなり、文字通り天使のようなひとになった。子どもっぽいところと、正義感と、少しのプライドとが混じった言動は、デイサービスの施設でもかっこいいお爺ちゃんとして尊重され、父は漸く自分に満足できる扱いを世間から受けていると安堵したのだろう。

戦後、13歳で父親を亡くした7人兄弟の長子は、今で言う、児童労働の期間を余儀なくされて、得意だった勉強をする機会を失った。汗を流して働いている父のそばで若い母親が、「勉強しなかったら、あんな仕事をしなくちゃならなくなる」と連れている子どもに言い聞かせていたと、烈火のごとく怒っていた。独学でたくさんの本を読み、漢字もたくさん書けたし,語彙も豊かだった。計算も得意で、ナンプレも何時間も熱中していた。

彼には能力も実力も望みもあったのに、「学歴」だけがないために不当に扱われ、それを得るための機会を奪われた。それは全く父のせいではなかった。のちに真面目な気質と好景気が相まって仕事は順風満帆、そこそこの収入を得るようになって自営業で独立したが、理不尽な人生への悔しさはそんなことでは解消しなかったのだろう。

どうやら彼の酒乱には、学歴コンプレックスが後ろに隠れていると、長々と続く愚痴と罵声をほとんど毎晩のように聞かされた12歳のわたくしは、自分なりに解釈した。そして、とにかく自分は学歴を身に着けるのだと強く心に決めた。

中学に入るやいなや、わたくしはいわゆるガリ勉になった。母が言うには「気が狂ったように」、机にしがみついた。いつ見ても勉強していたと家族が言うほど。すぐに学年でトップクラスに入ったけれど、父の酒乱は変わらなかった。「この人は娘の成績ぐらいでは治まらないほどの怒りを抱えているんだろう」初めて学年一位になった夜、わたくしは自分の無力に絶望した。

それでも、既に自分の立ち位置やランク付けの世間の仕組みを認識したわたくしはガリ勉をやめなかった。そのまま大学まで進み、資格をいくつか取得し、就職も難関試験を突破していった。

幹部候補としての特別なトレーニングもクリアし、期待の星扱いが待っていたが、結局は、職場の男性たちの妬みを買うようになって、虚弱に無理が祟り、入院。此処に自分の求める居場所はないと判断し、寿退職となった。

それからは、主婦業の傍ら気楽な自由業で、自分なりに暮らしていくことが叶い、自身の身体をいとい乍ら落ち着いた暮らしを送ってこられた。そんな時、三十五になったある日、道を歩いていて、唐突に或る考えが降りてきた。

「今のような穏やかで安定した暮らしの元にあるのは、お父さんの強烈な学歴コンプレックスのおかげだよ。」そうだ、思えば、今現在のわたくしの知識や思考やスキルは、父の酒乱がなければ、多分身につかなかったものなのだ。そうして、わたくしのライフワークである、「子どもの人権を守る」というテーマも、自らの辛かった子ども時代と父の成育歴の課題を解消したいという無意識が選んだのだろうと。その瞬間パズルのピースがパチッとはまったように何もかもを了解し、父へのわだかまりはほとんど消え去った。不思議なありがたい体験だった。

今、写真の中の父に見る、ほっそりとした骨格や大きな薄茶色の目、はにかんだ表情、父の独り言や鼻歌などの音の記憶、父の部屋で見つけた、出来事だけを淡々と几帳面に記録しているメモや備忘録などなど。残された父の痕跡を一つ一つ眺めると、自分と父の似通った点が思っていた以上に多いことに改めて吃かされる。

父の旅立ちから三週間が来ようとするなか、庭にツユクサの花があちこちと顔を出す涼秋がやってきた。わたくしは、ようやく素直な心持で父娘の対面ができるようになった気がしている。涙がほろほろとこぼれるのを自分に赦してやりながら。

画像1

最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。




                      


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?