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文豪=変人?

最近ネットや書籍で文豪の奇行を取り上げたり、業績を茶化したりしているような文章を目にすることが多い。例を挙げると「紀貫之は世界初のネカマだった!」とか「石川啄木のクズエピソード10選!」とかいった感じだ。

こういったエピソードは文学の堅苦しいイメージを取り払って、その作者と作品に親しみやすくするという点では実に有益なものだと思う。しかし最近この手のものが蔓延りすぎて、却って文学の普及の妨げになっているのではと感じることさえある。

と言うのも、本来文学作品という偉大な業績があってこそ成り立っていたはずの話が独り歩きして、文豪を「なんか変な人」くらいに軽んじるような態度が散見されるためだ。

作品は一つも読んだことが無いのに、芥川を「巨根の人」谷崎潤一郎を「ドM」石川啄木を「クズ」扱いする人のなんと多いことだろうか。現に私も友人に「太宰治ってメンヘラの人でしょ」と言われたことがある。実際にそういう面があるにせよ、そこだけを取り上げて強調するのはあまりにも短絡的な理解の仕方ではないか。

先に挙げた紀貫之にしても、今に至るまで名前が残っているのは『土佐日記』、『新古今和歌集』をはじめとした、文学史に残る不朽の業績があってこそのものである。

それが「え?紀貫之ってそんなスゴい人だったんですか?ただのネカマの変態親父だと思ってました笑」とは本末転倒もいいところだ。紀貫之に限らず、近代の文豪たちも作品の名前さえ出さずにこういう扱いをされているのを何度も見てきた。

もちろん現今の状況の一因には、文学作品の魅力を伝えきれていない文学愛好者の怠慢もあると思うし、それは改善されるべきことだ。しかしあまりに軽薄な態度のうちに彼らの業績までが矮小化され、笑い飛ばされているのを見ると、なんとも悲しい気持ちになる。

有名人の逸話はセンセーショナルなものだから、そこに飛びつく気持ちもわからないでは無い。ただし彼らは奇人である前に1人の文豪なのだということにもう少し敬意を払ってもいいのではないかと思う次第である。裏話はその語が示す通り、あくまで裏方にあるべきなのだ。

暗い話題にはなりましたが、読んでいただきありがとうございました。

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