見出し画像

荒地の魔女 #2

<#1>

 あの時のガノンの顔と言ったらねえ。今でも鮮明に思い出せるよ。こう、口をポカンと開けて……なんだい? なぜそんな質問をしたのか、だって? 好奇心だよ。アタシも若かったのさ。アンタだって、まだ南方蛮域にまで足を伸ばしたことはないんだろう? そういうことさ。聖堂や教会に置かれた本にゃあ載っていない、生の知識。そういうものが欲しかったんだ。
 なに? 他の英雄たちや旅人にも聞いたのか? ああ、聞いたよ。当然さ。すでに英雄だった者。アタシと出会った後に、名を知らしめた者。色々いた。いたけどね。彼らはみーんな、しっかりとした知識を持っていた。確かな足取りで生きていた。わずかな恋と嫉妬から闇に目をつけられ、見事に反転した女とはえらい違いだよ。
 おいおい。なに生意気なことを言ってるんだい? アタシだって、確かな足取りを持っている? 冗談じゃないよ。確かな足取りを持っていたなら、闇を駆使したりしないよ。他人様を手に掛けたりなんざ、絶対にしない。闇に飲まれた事実を、自分のために使った。この事実だけは、曲げらんないのさ。だから二度と、魔女に慰めなんてよしてくれ。
 ……しんみりしちまったね。話を戻そう。アンタだって、南方蛮域には足を伸ばしたほうが良い。かかわりがないわけでもないんだからね。彼の故郷を見るのは、いい勉強になるはずだ。遊学の身なら、なおさらにね。え? ガノンの答え? アンタは本当にせっかちだねえ。まだまだ時間はあるんだ。ゆっくりと話そうじゃないか。ほれ、茶でも飲むと良い。

***

「……悪くはない。こちらの荒野のように、決して潤沢肥沃な土地ではなかった。だが、悪くはない。人は戦いを尊び、礼を尽くしていた。戦いという行為を愛していた。弱き者に対しても、情があった。貧しくとも、人々は心で繋がっていた」

 口を開いてからややあって、ガノンはとつとつとラーカンツについて語った。彼は思う。故郷について語るのは、いつぶりであろうか。わずかながらも轡を並べた、重装の女戦士に対して口を開きかけたことはあったか。しかしそれ以外ともなれば、故郷を出てからとんと久しいことになる。

「ほう。そんな悪くない場所を、どうしてアンタは捨てたんだい?」

 ガノンの答えに、魔女は間合いを詰めた。一理あると、ガノンは思った。魔女が言う通り、悪くない土地であらば、去る必要はなかった。ならば、何故に。

「おれには狭かった」

 ガノンは、手短に応じた。これはガノンにとって真実だった。周囲の者はまだ早いと彼を諌めたが、彼は一刻も早く故郷を出たかった。故郷で多くの者どもをねじ伏せた、人並み外れたその力。どこまで届くのか、文明人の土地で、試したかったのだ。

「広き地に出れば、おれに伍する者がいると思っていた。事実、多くのものに出会った。常人では抗えぬ誘惑、闇を知った。故郷では出会えぬものに出会ったし、強き者も多くいた。おれは間違っていなかった」
「そうかい」

 美女たる魔女は、ゆっくりとうなずいた。しわがれ声は、あまりにもその容貌に不似合いである。しかしそれを元に戻す術はない。あるにしても、本人がそれを認めぬだろう。

「故郷に戻る気は?」
「おまえがしわがれ声を捨てる気がない。それと似たようなものだ」

 そんな魔女を慮るように、ガノンは問いを切って捨てた。事実、彼が故郷に帰ることになるのは、もっと先の話である。今はただ、広い世界を歩んでいたかった。己の強さを、試したかった。

「これは一本取られたわい」

 魔女が、カラカラと笑った。彼女はおもむろに立ち上がると、部屋の一角にある倉庫へと向かった。なにやらゴソゴソやっている。しばらくして、彼女は幾枚かの干し肉と野菜を取り出して来た。

「私は別に、ほとんど食わんでも死にはせん。だが、聖堂の連中が時々食料を持って来よる。今日は一杯振る舞おう。振る舞わせてくれ。なに、【異界】の物を食ったら戻れない、なんてことはない。安心しろ」
「むう……」

 思っていたこと、抱えていた疑問を先に言い当てられる。こうなっては、ガノンも返す言葉がない。かくて大釜が煮立てられ、ガノンは魔女の振る舞い飯を口にすることと相成ってしまった。

***

「ふう。食った食った」

 およそ一刻後……というのはガノンの時間感覚故に証明できるものはないのだが……。外に設えられた食事の場では、腹を叩いて椅子にもたれる魔女の姿があった。当然、女性としてはあるまじき振る舞いである。しかしガノンは顔をしかめるでもなく、器いっぱいに盛られた己の食事に立ち向かっていた。

「くっ……」

 ガノンの食する手、実は少々前から止まり気味である。なにせ魔女と食事を始めた際には、この倍以上が見事なまでに器に盛り付けられていたのだ。魔女のはしたなき振る舞いよりも、こちらのほうが顔をしかめたくなる心境であった。

『いかに客が相手とはいえ、少々盛り過ぎではないか?』

 器を手に取る前、彼はあまりにもこんもりと積み上げられた食事量に、抗議の声を上げていた。たしかに、客に対して不足を感じさせるのはもてなす側として最大の無礼である。だが、客を困惑させるが如き盛り付けもまた無礼ではないか。ガノンはそう告げたのだ。彼は決して少食ではない。むしろ健啖家であるという自覚もある。しかしそんなガノンをもってしても圧巻、山のような盛り付けだったのだ。

『なにを言うさね。男は食らうが商売、動くが商売、だろう?』

 だが魔女――バンバ・ヤガは一笑に付した。ガノンはなおも抗議しようとしたが、魔女はそそくさと食事の開始――神への感謝、開始の合図――を告げてしまう。こうなっては、いかにガノンといえども食に挑む他なかった。動くが商売なのに、動けなくなってしまいそうなのだが。そんな逡巡は、干し肉とともに飲み込むしかなかった。

「どうしたどうした。食わねば大きくなれぬぞ」

 手が止まりがちのガノンに向けて、魔女から煽りの言葉が飛ぶ。真に食べおおせると見ているのか。あるいは、ガノンが音を上げるのを待っているのか。カラカラと笑うその表情からは、どちらの可能性も窺えた。

「ぬかせ。少し休んでいるだけだ」

 しかしガノンも負けてはいない。負けを認めることもない。簡単に敗北を認めてしまえば、それはラーカンツの誇りを損ねることになる。戦神にもとる行為となってしまう。これは戦いにはあらず。されど、己との戦いであった。かくしてガノンは再び匙を手に、器へと立ち向かった。そして。

「……これでいいだろう」
「見事だ」

 また一刻後、ガノンは無事に食事を完遂せしめた。彼は椅子にもたれることもせず、戦神に祈りを捧げていた。戦いを尊ぶラーカンツでは、食もまた、戦神からの恵みである。特に狩りで得た食物ならば、なおさらだ。仮に戦いで得た食物でなくとも、そこには気候や土壌、風土が密接に交わる。それもまた、ラーカンツの者にとっては戦いの一つであった。加護を祈るに、値せずとも。

「……おまえはいつも、こうして暮らしているのか」

 ややあって、ガノンは口を開いた。常ならぬほどに腹を膨らませているにもかかわらず、その口調には変わりがない。視線の先には、変わらず美貌を晒しているバンバ・ヤガがいる。彼女は表情を変えることなく、彼に向けて言い切った。

「そうさね。まあ、食事はともかく、のんびりと暮らしておるよ」
「……いかなる仕儀にて、二重の隔絶など」

 ガノンはさらに問う。彼は未だ、この魔女の身の上を知らなかった。常ならば特に気にする話でもない。だが今は、【異界】に踏み入っている。現世に帰れる可能性が上がるのなら、どんな情報でもかき集めたい。そんな思いが、彼を踏み込ませていた。

「とある聖女が迂闊に恋に陥り、嫉妬から闇に飲まれ、想い人とその相手を手に掛けた。聖女は自分が闇に飲まれたことに気付いて自力で浄化したが、結果闇は聖女を畏れ、時空から拒絶した。また聖堂は聖女の罪を許さず、その拒絶に輪をかけて隔絶の刑を施した」
「ふむ」

 ガノンは頷く。拒絶に拒絶を重ねるのは、相応の技量が必要な行為である。だが要点はそこにはない。彼女は何故に、【聖女】から【魔女】へと陥ったのか。ガノンはそこを問うべく、口を開こうとして――

「アンタ、意外と鈍いんだねえ。いくら闇を浄化したって、魅入られた以上残るモンは残るのさ。ついでにアタシは、人様を手に掛けちまったからね。コイツは、アタシ自身の烙印でもある」
「……」

 彼にしては比較的珍しいことに、ガノンはここで沈黙を選んだ。ガノンにとって、闇は抗うべきものである。戦い続けることによって闇に飲まれることがなきよう、彼は故郷で教育を受けていた。血と憎しみを伴う戦は、非常に闇と近しい属性を持つ。南方蛮人は、そのことを肌で知っていた。恋と戦が近しいものかは知らねども、闇の手を取ったことの意味は知る故に。他者を手に掛けることの意味を知る故に。

「そうしんみりするない。これでもアタシは、この生活を気に入ってるんだ。こうして時折踏み込んでくれる者がいる。聖堂の妙な気遣いのお陰で、不自由もしてない。これ以上を求めちゃ、神罰が下っちまうよ」
「……ならばいいが」

 ガノンはそれでも、怪訝な顔を隠せなかった。一度は欲に駆られた人物が、そう簡単に欲を捨て切れるのか。疑問は表情に出、そして魔女に読み取られる。すると魔女は、ケラケラと笑った。

「なあに。最初の頃はメソメソ泣いてたもんさ。なにせここは寂しい。人っ子一人いやしない。だけどね」

 魔女は一度、空気を吸った。ガノンは彼女の目を見る。黒い大きな瞳には、力が籠もっていた。

「ソイツがアタシを目覚めさせた。もう一度、自分と向き合わせてくれたのさ」

 そう言って彼女は、椅子から立ち上がった。

#3へ続く

もしも小説を気に入っていただけましたら、サポートも頂けると幸いです。頂きましたサポートは、各種活動費に充てます。