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心と筆

 筆を折った回数なら、誰にも負けない自信があった。自分の発想力の無さに心底うんざりした日や、あいつの詩だけが絶賛された日。金が足りなかった日。仕事が思うように進まなかった日。寝坊した日。雨の日。筆を折るきっかけなんて、いくらでもあったのだ。何でも良かった。ただ、辺りがほのかに暗くなるだけで、僕の目にあんなにも鮮やかに映っていた言の葉の世界は、途端にチープな喜劇へと成り果ててしまう。

 ちょっとした劣等感や諦めが、ぽた、と垂れた時、それは急速に僕の中に染み込んでゆく。ちょうど、筆洗に真っ黒な筆を入れたときのようだった。この、薄汚れたと言おうか、不快なと言おうか、そういった感情が僕の血と混ざり合いながら、どこまでも僕を支配していくと、矢庭に視界は曇りだす。自分がどこまでこの世界を表現できるのかが分からなくなり、不安に埋もれていく。そうしてそこから、1画たりとも僕の筆が動くことはない。僕には到底できないことだった。世界を書こうなんて、烏滸がましいにも程がある。僕は、構成段階のプロットごと全てを廃棄し、文学賞の締切に何とか間に合いそうだった作品も、全て捨てた。

 その後は、意外にもなんの後悔もない穏やかな日常が帰ってくる。「大した夢ではなかったのか」と安堵し、物書き自体が馬鹿馬鹿しいことのようにも思えてくる。なんと気楽なことだろうか。何よりあの花の揺れる様子に目を奪われなくて済むのだし、電車がホームに入る際の突風にさえ感傷的にならずに済むのだ。あまりの気楽さに、笑みが溢れるほどであった。体が宙に浮かぶような心地さえする。

 

 しかし時が経ち、僕の心を形作る一片を見つけた時、あんなにも軽かった体は瞬間に重さを取り戻す。腹に鉛を入れたような重さであった。これは醜い人間の形や、色とりどりの傘が咲く様子、夏の夜風の香りによって、まるで発作のように引き起こされるが、それらをなんとしても僕自身の言葉で世に記さなければいけない、そうでなければ、僕は僕でないと思うのだった。川縁に咲く花に耳を傾け、他人の悪事に胸を痛める。そのあり方が、きっと本当に僕だった。筆を折った後の軽い体では、感じられない微細な空気感。それを見ずしていかに僕が僕たり得るか。気楽に微笑んでいても、無味乾燥では意味がないのだ。その微笑は空虚である。そうして再び、筆を持つ。

 そんな繰り返しが、もう何度行われてきただろうか。その繰り返しの中で、やっと完成した作品はまだたったの五作ほどだった。物書きというものは生粋のマゾヒストなのではないかと、僕はもう真剣に思い始めている。というのも、この思考は、僕の体に眠る鉛に由来する。僕はいつだって、筆を持っていないときの体の方が、軽いことを知っているのだ。あの軽さは解放感という言葉では、まだ、足りない。羽一枚と鉛一トンである。

 では、僕に取り憑くこの重さはなんだ?

 はじめ、僕はこの重さを、自身を苛む枷や鬱だと信じていた。しかしどうだろう。手放した矢先、再び自らの意思で取り戻してしまうこの重さは、本当に僕にとっての枷や鬱で有り得るのだろうか。
 僕は、物書きとして在るときだけ、世界の美しさをみることができるのだ。いや、僕の目に映るこの美しさが、僕を物書きにするのかもしれなかった。いつだって、心がそこに在る。花の色を、空の形を、風の匂いを、確かに掴むことが出来るのは、きっと僕のこれ以上ない取柄である。
重い体を引き摺ってやっと、時に暗く時に明るいこの鮮やかな世界を僕は手に入れている。その事を、僕は知らねばならなかった。そうして、それを知った以上もう二度と筆を折る事は出来ないような、誓いにも似た何かが新たに僕を形作り始めていた。

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