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「日本ワイン」という呼称はガラパゴスの入り口な気がする

最近の日本ではワインがブーム。かなりの数のワイナリーが毎年新しく起ち上げられ、この業界に関わろうとする方々の数もまさにうなぎ上り、という様相を呈しています。業界関係者としては喜ばしい限りです。
最近では造り手を中心としたイベントも起ち上げられるようになり、多くの方々がこれからの未来についてその熱い想いを語られる機会も増えているように思います。

これに対して遅れているのが業界を取り巻く、法的なものを含めた環境の整備。ワインを造っている多くの国では整備されているワイン法と呼べるようなものはまだなく、唯一、酒税法の規定の中で原産地呼称などについて触れられているにすぎません。法規制がないということはある意味では自由で気楽にやれることの裏付けになりますので、必ずしも悪いことではないと思われるかもしれません。しかし、実際にはガイドラインがないということですので、メリットよりもデメリットの方が多くなると個人的には感じています。このデメリット、ざっくり考えてみても2つの方向で大きなインパクトを持っているように感じます。

1つは、現状においてガイドラインがないということは、いつ、どのような形でそれが設定されるか分からない、ということでもある現実。こうなるとそれまで出来ていたことがある日突然出来なくなる、というリスクが発生することに常に怯えながら動いていかなければならなくなってしまいます。
これはそれをやる側よりも、そのための材料や道具を提供する側に対してより大きなインパクトを与えます。つまり、ブドウ栽培やワイン醸造に使う資材を提供するメーカーが参入しにくい、ということです。

例えばニュージーランドなどは独自のワイン法を持っていますが、基本はEUが定めるそれを下敷きにしています。こうすることでEU規定との互換性を持つことが出来ますので、自国のワインを輸出するにしても規格が大きく異なることはなく作業が省力化されますし、業界周辺にいる各種メーカーも基本的にはEUの法律の動きをウォッチしつつ、細かいところだけ現地に合わせればいいので対応が楽になります。

一方で日本はそのようなことがありません。どこまでも独自路線でしかも税金を取ることを主目的にしているので、ルール自体の方向性がうわべは似ていても本質的には全く異なります。いつどこがどのように転ぶか全くわかりませんし、基本的な方針の明示もありません。こうなるとグローバルに動いているメーカーにとってはとても対応しにくい状態となります。いちいち規模の小さい日本の市場にあわせて細かいチューニングや対応をすることはコスト高になるだけで利益になりませんので、誰もやりたがりません。結果、日本を取り巻くワイン造りの環境は周辺の国と比較して何世代も遅れていく可能性が出てきてしまいます。

このような状況に根差しているのかどうかは分かりませんが、実は先日、驚いたことがあります。
ワインを造る際にはワインに含まれる遊離型二酸化硫黄の含有量を実測することはとても重要です。二酸化硫黄というのはいわゆる酸化防止剤として日本では知られている、一部では頭痛の原因になる悪者として忌み嫌われている成分です。この物質が頭痛の原因になる、ということはほぼないのですが、それでも造り手たちは含有量を極力減らそうと頑張っています。そうなると、その添加の必要最低限度の見極めには正確な数字を把握することがとても大事で、これをいかに手軽に測定できるのかは重要な項目です。

我々はこの数値を極めて簡単に把握する手段として、一つの試薬を使っています。
一定の量のワインにこの試薬を少しずつ垂らしていって、ワインの色が変わった量が遊離型SO₂の量になる (これを滴定といいます) という、なんともお手軽な試験方法です。測定にかかる時間は30秒、場所は選びませんし、専用の機械も必要ありません。確かに完全に厳密な測定値ではありませんが、概要を把握するにはこれで十分です。

こうしたお手軽でありながら、必須の道具が日本には無いようなのです。もちろん、測定手段がないわけではないようなのですが、いちいち機械であったり、より面倒で時間のかかる方法であったりしています。それが悪いわけではないのですが、測定にかかるコストや時間、場所を選ぶという制約などが積み重なると大きな差になって生産者にのしかかります。はっきり言えば、不便なのです。方法が不便だとやること自体が面倒になりますので、やらなくなってきてしまいます。そうなると品質が下がるリスクが高くなります。もう、お手本のような、分かりやすい悪循環です。

こうした事例は実は多く、日本に進出しているグローバルメーカーのカタログをドイツのそれと見比べてみても、日本市場向けの品ぞろえは圧倒的に少なくなっています。


そして2つ目のインパクト。個人的にはこちらの方が悪影響が大きいと考えていますが、共通言語の非共通化です。

「ワイン」という単語は「ブドウからアルコール発酵を経て造られたアルコール含有飲料」であることは誰にとっても共通の認識です。そこは基本的には世界中、どこに行っても変わりません。でも、実際には「ワイン」という単語はこのようなものすごく大括りな定義付けだけで成り立っているわけではないのです。「ワイン」が「ワイン」であるためには実は様々な細かい約束事があります。その細かい約束事を決めているのが、ワイン法です。

ワイン法という最低限度、「ワイン」が「ワイン」であるためのガイドラインが下敷きにあるから、世界中の人々が同じ「ワイン」という共通言語の元で会話が出来ています。各国もこの「共通言語」という部分に気を使っているため、それぞれのワイン法を世界的にも歴史が古く、ある意味で確立されていると言っていいであろう、EUのそれに寄せているのです。自分たちだけ全く関係ない定義で「ワイン」という単語を使い始めたら世界の「ワイン」業界から外れてしまうことを分かっているからです。
これを個性の主張というのは簡単ですが、そんな小さなメリットのためにやるにはデメリットの方が大きくなりすぎます。そんな不利益を被るくらいなら、ベースラインは世界基準に合わせつつ、追加条項等で個性を守る余地を残した方が余程現実的な対応といえるでしょう。

翻って、すでに書いてきたように日本には現状、このような下敷きがありません。とても自由です。その代わりに、日本のワインを世界に輸出することには障害が伴っています。
例えば非常に分かりやすい例を上げましょう。ワインをEUに輸出するためにはボトルのサイズが細かい規定はありますが、基本的には750mlであることが必要です。これに対して日本の基準は720mlです。たった30mlの違いですが、この違いのせいで日本のワインはそのままではEUに輸出することが出来ません。ばかばかしいと思われるかもしれませんが、事実です。

これと同じようなことがワインを造る際の醸造面でも存在しています。
細かいことは本筋から外れるので省きますが、日本で造られるワインは現状、輸出をする場合にはそれを前提として造らないと規定上、EUでは「ワイン」として認められません。日本では「ワイン」と呼称して販売しているものが、EUに出す場合には「アルコール飲料」としてしか販売できないのです。日本で当たり前にされていることがそれだけEUを中心とした「ワイン」という共通言語から離れた場所にある、ということです。

日本の造り手さんや、業界を盛り上げようと頑張っていらっしゃる方々は口々に「日本ワイン」を盛り上げていく、と仰います。それはいいのです。素晴らしいことです。でもね、と同じ造り手として、しかも別の国でワインを造っている身として思うことがあります。世界のどこにワインをわざわざ自国の名称を付けて特別視させて造っている国があるのかな、と。

私はドイツでワインを造っていますが、私は「ドイツワインを造っている」とは思っていません。私が造っているのは「ワイン」です。
これと同じで、ドイツの造り手はだれも自分たちが「ドイツワイン」を造っている、なんて思っていません。もちろん、生産国表示上は我々が造っているのは「ドイツワイン」です。でも、誰もそこに「日本ワイン」という時に感じているであろう特別感など持っていません。我々にとっては「ワイン」はあくまでも「ワイン」で、それ以上でもそれ以下でもなく、フランス原産だろうとニュージーランド原産だろうと「ワイン」であることに違いはない、そこに在り方として特別感はないと思っています。

「ワイン」という言葉につける地名、国名は分類上の表示という以上の意味を持っていません。


しつこいと思われるかもしれませんし、日本の生産者の方を馬鹿にしているように思われてしまうと困るのですが、日本には共通言語としての「ワイン」の認識が欠けている部分があるように感じています。もちろん、きちんとしたここでいうグローバルスタンダードな認識をお持ちの生産者の方々も多いので全員が全員そうだ、なんて言う気はありません。ただ、あまりに日常の栽培や醸造の現場で出来ることが幅広く、共通言語としての「ワイン」の範疇をたやすく飛び越えてしまえるためにそれが「ワイン」として当たり前だと思ってしまっている方々も多くいらっしゃって、そうした方々が仰る「日本ワイン」はすでに共通言語としての「ワイン」の枠からはみ出してしまっているのではないかな、と思うことがたびたびあるのです。

そうした前提に立って「日本ワイン」の将来像をデザインし、その目標に向かって熱意をもって邁進していくことは傍から見ていれば美しい姿かもしれませんが、業界としては地獄への一本道です。
もちろん完全に孤立することを容認して、日本という島国の中で閉じてガラパゴス化して生き残っていくというとても高度なニッチ戦略をとっていくのであれば話は別ですが、それはやはりツラいのではないかな、と思います。少なくとも、自分はちょっとその世界には踏み込めないです。それは緩やかな破滅への道程であることはすでに歴史が証明していますので。

「日本ワイン」という名称をマーケティング的に使うことが悪いわけではないのです。でもそれは英語にすればwines made from japanだし、ドイツ語にすればweine aus Japanであって、そこに入る地名はいくらでも他のものと変えることのできる、一般的な組み合わせの効く、同一カテゴリーとして語り、比べられる類のものなのであって、固有名詞としてJapanwineとかjapanischer Weinではないよね、ということをきちんと認識しておくことが大事かな、と思うわけです。逆にそういう固有名詞がつけられて一般的な共通言語から離れたものとしてカテゴライズされてしまうことは競争戦略的には、もしくは長期的な生き残り戦略的には不利にしかならないかな、と。


ワインを造る一個人として思うことは、我々が造っているのは「ワイン」であって、それは根っこの部分では国籍などによって区別され特別視されるものではないのじゃないかな、ということ。ドイツで造ろうが日本で造ろうが喜望峰の横で造ろうが、それは「ワイン」であって、なにも特別なものじゃないんだよ、特別視しちゃむしろ良くないんじゃないの?ということ。

今後、ガイドラインがちゃんと整備されて、「日本ワイン」という言葉が「日本で造るワイン」という言葉に変わっていければ、この業界ももっと先に進んでいけるんじゃないかな、と感じています。


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