短編 生きた理由 (約8500字)

「うわああああああああああああ」

音のした方を振り向くと一人の若者がこちらを見て立ち尽くしていた。なにやら怯えているようだった。生まれたての小鹿のように足をわなわなと震わせついには尻もちをついた。俺はもう少し脅かしてやろうと思い、彼の前に歩み出る。ズシン、と大地が響いたようで愉快だった。若者はいっそう血の気を引いたことだろう。重心を支えていた手で無意味にぴしゃぴしゃと水を掻く。蟻ほどの後退。どうやらまともに逃げることすらできないらしい。身の危険を感じるほどの恐怖に体をすくめ、立ち去ることすらできないなど何事か。生き延びるための本能がかえって生を阻害しているのだと思うと俺は馬鹿らしくなった。

俺は尻と背中を向けた。これ以上交戦する意図はないと伝える。もっとも、この知識だけはある動物未満の存在に伝わるかは不明確だった。俺は森の陰に身を潜めるように足を入れる。このまま振り返らずに立ち去るのが自然の掟なのだが、この時ばかりは後ろを振り向いて例の若者の様子を確認する。自然に従う身とはいえ、危険は、冒したくなかった。あの若者がどんな行動を取るか、知恵足らずの俺ではわかったもんじゃない。懸念は当たっていた。カーキ色のパンツをびっしょりと濡らした若者は、肩にかけた猟銃を今まさにこちらに向けようとしていた。俺はカッとなって走り出していた。本能のままに草花を踏み倒し、陽光を水色に反射させる川辺に再び躍り出た。耳を劈くような銃声すらごめんだった。

川に鮮血が流れ出た。地球があたかも赤色のビー玉でもあるかのように紅色の流線が透明な水の中を伸びていく。

若者はしばらくの間、太陽の熱線を煩わしそうにして熱い息を吐いていたが、次第に息絶えた。死に場所が川のウォーターベッドとは贅沢なやつだと俺は思う。万物は流転する。生の始まりが死に場所になるのだから羨ましいことこの上ない。自然の始祖は水であり、万物なのだ。

しかし、それにしてもこの男は幸運ではなかった。ここでは、自然のルールを守らなければ生き延びられない。知らなかったというのは不運以外の何物でもないだろう。いかに多くの知識を携えていたとしてもそれらを補って生存確率を上げなければ、死んでしまえばすべて無に等しいのだ。この男は結果として文明の利器とも言える銃をとったが、決して賢明ではなかった。尻を向けた俺を狙うのはこの状況では不適切だった。素直に立ち去るべきだった。自然を生きる俺は死の嗅覚が研ぎ澄まされているのだ。逃げることすらできないこの動物未満は総じて愚かだった。愚者だった。俺はそのようなことを考えながら黙々と石を置いていく。川底に沈んで水面で蓋をされた肢体は、産卵を終えて命尽きた鱒の如く醜悪さを増した。

俺は、返り血を綺麗に洗いのそのそと森へ戻った。血の匂いは別のハンターを呼び寄せるから入念に取らねばならないのだ。

翌日の森は騒がしく感じた。寝床にしていた洞穴で目を覚ますと、シンシンとまるで雪の降っている時のような幽かな残響が森中を覆っているようだった。懸念材料としてはいささか微量ではあるが俺は気を引き締めた。感覚と本能こそ自然を生きる上で指針となるものなのだ。自然の中で理性は不要だった。

いつも以上に音を消し慎重に移動する。注意も怠らない。森の騒めきがより鮮明に聞こえてきた。遠くにいる動物たちの便りが木々を伝線してくる。森を構成する木々は柱でここは神殿だった。今まさにこの聖域を犯そうとする軍隊が派遣されたと彼らは伝えた。俺は憤りを感じた。先に自然のルールを破ったのは向こう側だったじゃないか。俺は大きく唸り声を上げ駆け出した。

川辺に近づくと音の正体は徐々にはっきりしてきた。人の身につけた鈴である。距離がかなり近づいたようだ。忌まわしい音が響くのを堪えて俺は進む。相手が近くにいると分かっているのだから逃げるこそ先決なのだが、俺はなりふり構わなかった。森が侵されているという事実に黙って背を向けるわけにはいかなかった。本能が戦争を望んでいた。代を経て塩基配列が変化するうちに人間の悪行が、自然破壊が動物たちにとって最も忌むべきものになっていたのかもしれなかった。危険に遭遇したら逃げるという本能は、とうに書き換えられたのかもしれなかった。

時には死闘を決しなければならない動物たちとは敵であり同士でもある。厳しい自然をともに生き抜き殺し合う動物たちが、しかし今まさに蹂躙されかけている。川辺まであと少しというころで森の騒めきがいっそう増した。動物たちの鳴き声が一斉に響き渡る。俺は瞬時にそれらを理解する。それは決して呻き声などではなかった。もっと強い意思を感じるもの。近づいてくる脅威に対抗せよという賛美歌であった。今まさに開戦の幕が切って落とされようとしていた。

川辺に辿り着くと昨日となんら変化はなかった。まだ敵は遺体を発見できてないようだった。そこで俺は少し気を緩めた。この川こそ最前線になると読んでいたためだ。すると戦略を一案してみてもいいかもしれないと思う。人間たちはいずれこの遺体に辿り着くだろう。その過程で同士が殺されてはかなわない。人間たちの進路を妨害するようであれば真っ先に銃撃されるだろう。人間たちも馬鹿ではない。今攻め込んできている人間どもはある程度森の歩き方を心得ているはずだ。当然単独行動している可能性は低い。したがって数人のグループで行動しているはずだ。となるとやはり武器を所持していることもあって武が悪い。敵を撃つべきはここだ。もし彼らが同胞の死体の回収に飽き足らず、この川を渡り森に侵攻する意思を見せたならその時は容赦しない。俺は森にそう誓って鳴き叫んだ。

同士はすぐに集結した。女子供を巣に残してたくましい肉体を持ったオス共が集結したのだ。俺はそれだけでなんだか嬉しくなった。やはり弱肉強食の理念は動物たちの自然の信仰によって支えられていた。ゆえに、信仰を介して俺たちは心を通わせることができたのだと再実感した。森を通じて、鳴き声での疎通は確かにできていたのだ。それらは今まで本能的な理解に留まっていたが、こうして俺はようやく理性的に理解することができた。

俺たちは繁茂する植物に潜んで人間たちがその姿を現すのを待った。同士はみな力強い眼力を川辺に向けじっとしている。内心恐怖もあるのだろうと俺は思う。でなければ今にも川を渡り相手に頭突きを喰らわせてやらねばおかしいのだ。本能であるはずの恐怖が動物たちを逆に理性的っぽくさせているのかもしれない。動物のこうしたいという欲求は、本来は一直線に向けられるはずなのだ。それが俺に異議を唱えることなくじっと堪えているのだからとても理性的だと思う。

数時間ほど経過してようやく変化は訪れた。そこら辺に密集して生えている木の実を口に入れていたら、向こう岸に4人の猟師が姿を現したのだ。4人ともひょろひょろしていながらもどこか自信に満ちた手練れのハンターの風格を漂わせている。俺たちは本能的に恐怖を感じ、じっと目線だけを動かす。

「あーやっぱり死んでるねぇ」

沈んでいる遺体を見つけた一人が声をあげる。

「こりゃひどい」「熊か?」「熊みてぇだが、石が載せられている感じをみるに......」

そして、ある一人が言った。

「殺人か?」

俺はその言葉に内心にやりとした。人間社会の枠に嵌めれば、俺のやったことが殺人となるらしいのだ。

「それは警察の領分だべさ。検視すれば明らかになるべさだからとりあえず応援呼んで運ぶ。目的を果たして終わりべさ」

「そうやね。一刻も早く遺族の方々に仏顔の拝んでもらわんと」「べさ」

彼らはそう言ってきた道を戻り、十数分後、駆けつけた仲間とともに遺体を運んで去っていった。その一連の動きを見届け、俺はふっと溜息をついた。集結した動物たちはいつのまにか解散していた。森はいつものようにひっそりと静まり返り、暗い陰を辺りに落としている。寂しい奴らだと俺は一人思う。脇には祝杯のために取っておいた木の実が自然に溶けこみ始めていた。俺はまた一人になってしまったのだった。先ほどまで体を支配していた熱もいつのまにか抜けていた。そしてまた、自然の中を孤独にも生き延びるべくして本能に没しなければならないのだと思うと嫌気がさした。理性が覚醒していた。

すでに森での孤独な生活もどこか嫌になっていたのかもしれないと一人思う。生き延びるために毎日精神を尖らせる日々に疲れ切っていたのかもしれない。俺は生まれた時からずっと一人だったから。同じ境遇の動物たちにも何度もあった。しかし、鱒のような産み落とした瞬間命尽きる動物たちに一度も同情したことなんかなかった。たぶんそれは俺に理性があるからだった。考えることのできる俺には彼らは惨め以外の何者でもなく映った。

そういえばこの自然の中にいる動物たちの中で理性を持っているのは俺だけなのだと気づくのにそう時間は掛からなかった。ゆえに人間に近い種属、もしくは人間なのかもしれないと思ったことは過去に何度もある。しかし、残念なことに人間でも猿でもないようだ。その証明はなんてことない。ある日ある時、森の中で偶然出会った人間の前に躍り出て反応を確かめたのだ。それも一度や二度でない。もう何回もやった。人間を追いかけまわすほどに。崖から勝手に飛び降りて死んでしまった人もいた。それでも毎回叫ばれる単語は同じだった。「ばけもの」と。それが仲間に与えられるべき称号だとは微塵も思えなかった。言語は持たねど、彼ら彼女らに恐怖を向けられている、その事実だけでも十分明らかだったのだ。俺は人間などでなく間違いなく動物であり化け物なのだ。俺からしたら突然狂ったように叫び出し時には殺そうとしてくる人間の方が化け物じみて忌避すべき存在なのだが。

ともあれそういうわけで理性のある動物であるところの俺は、ひとまずを自然に身を置いて過ごしてきた。そもせいか動物たちとは自然を介しての一種の共同体のように感じるようにもなった。今では森の居心地も悪くない。しかし今回の件ではっきりしたが、俺は理性のある仲間が欲しいようである。いつまでも孤独というのはやはり寂しかった。同じ理性ある仲間を見つけ、自分とはなにかという最大の疑問を解決することこそ俺の生きる意義なのだと思う。

そのような思考を経てついには仲間探しの旅にでることを決意した。

俺はひたすら山を降り続けた。これ以上薄暗い山奥の世界を覗いてもなにも得られないことは明白だった。人間界と自然を分ける境界のあたりこそ同じ境遇の化け物たちが闊歩していると期待していた。

徐々に斜面に転がっている人工物が目を惹くようになってきた。乗り捨てられて錆び切った自動車やビニールなどのゴミなどがむしろ新鮮だった。山奥ではなかなか見られない光景だ。このような興味深いものを作れるのだから人間とは性格が悪いが、面白い生き物なのかもしれないと改めて考えさせられる。

丘のようになっている木々が開けた場所に出ると、人間界の様子が一望できた。市街地とはまだ十分に距離はあるようで眼下に広がる風景はなかなかのどかだ。そこには青々とした田んぼが広がっている。そこでまずはその周辺を探索することにした。

一気に山道を降り田んぼの側に立つと空気が良くなったように感じた。不思議な感覚だった。大きく深呼吸をするとふっと優しい匂いが香ってくるようなのだ。それは森の中では感じたことのない安心感だった。山を降りてきたのはやはり正解かもしれないと思う。あとは同じようにここで安らぎを感じる理性の持ち主を探せばよいだけなのだ。

しかし、そう簡単でないことも分かっていた。十分な体躯を持つ動物の気配などすぐに察知できる。いかに擬態するのが上手だろうと息遣いや心臓の鼓動が糸ほどの気配を残す。俺は、その糸を容易に手繰り寄せることができた。なにせ長年を自然の中で生きていたのだ。例え人間と言えども例外でない。彼らも所詮は地球の生物に過ぎないのだ。ゆえにわかるのだった。俺が立っているこの付近には動物の気配が一切ないと。森では身の安全を証明してくれる安らぎの証し、虫の鳴き声だけが辺りに残響し風と共に草花を揺らしている。俺は田んぼの側で仰向けになった。日が沈み始め、遠方から夜がやってきた。

あっという間に夜空が天を覆い、星々が瞬く。空に懸かる月が細長い。辺りは当に闇に包まれ、水の音だけが残っていた。俺は眠りにつこうと目を閉じるが、刹那その目を見張った。なにか一筋の光が目の前を横切った気がしたのだ。否、一筋ばかりではなかった。闇で覆われたはずの一面に光が舞っていた。飛び立つ蛍の光を見るのは初めてだった。自然での生活では、日没前に洞穴に帰り静かに身を潜めてばかりだったのだ。思えば、こうやって夜空の下柔らかな草の上に寝転んで夜明けを待つというのもずいぶん昔にやったっきりだった。いつの間にか森での暮らしは味気ないルーティンワークになっていた。そんなものおもしろいはずがなかった。ゆえに今、心が浮つくのを抑えることもできそうになかった。俺は蛍の群が飛ぶのをやめるまでいつまでも光を追い続けていた。

「お前人間じゃないな」

突然そう聞こえた気がした。まるで頭の中に直接語りかけられたかのようだった。辺りを見渡すが闇に潜んでいるのかその姿は確認できない。さらに言えば気配すら感じない。

「どこにいる。姿を現せ」

俺の方からも意思疎通を図る。相手から働きかけることができるならこちらからでもできるに違いなかった。通信は開かれているのだ。そしてなにより、相手も理性を持っているに他ならなかったのだ。

「愚かな動物よ。貴様は一体なにを見ている。私も逃げも隠れもしないぞ」

すると、一筋の光が目の前でくるくると輪を描き近づいている。まるで光の螺旋階段だった。俺はゆっくりと光の前に手を向けた。声の主は蛍だったしい。彼は羽音ひとつ立てず指先に止まった。

「お前はずいぶんと寂しそうな眼をしているな」

「そんなことよりどうして蛍が意思疎通を図れる? 理性を持っている? 」

「瑣末なことを訊く。どうしてお前は理性を持っている? どうして存在している?」

嫌見たらしく言う向かって蛍に俺は素直に告げる。

「知りたいからだ。俺がどうして存在しているのか。意義があるのかを」

蛍はその答えに納得したようで愉快に笑う。

「フハハハハハ。結構。ならば教えてやろう」

そう言って語ったところによると、この蛍に理性に与えられたのは人間のおかげによるらしい。「ある時、わざわざ都会から来た親子連れがな......」と蛍が詳細に事を述べてくれたのだ。要点をつまみだすと、その親子の「都会じゃ見られない幻想的な光景だね」という言葉に呼応するように「幻想的とはなにか? 我らは命を燃やし光を灯しているのだ。子孫繁栄を願い祈りを捧げているのだ。............嗚呼、体が燃えるように熱い」と言い放っていたらしい。

「我が同志たちも同様の思いだろう」

そう蛍は厳かに告げた。今もなお命の灯を燃やしながら。

「なにか蛍の生きる理由は子孫を残すためなのか?」

「ははっ」

蛍は嘲笑った。

「なにも蛍だけじゃない。全ての動物がそうだ。もっとも、理性なんか持った暁にはより漠然としたななにかがあると思ってしまいたくなるもんだが」

蛍の言っていることは正しかった。俺も分かっていたのだ。出会った動物はすべてそうだった。しかしそれはあくまで本能的な枠での理解だった。この蛍は今まさに理性的な理解を示したのだ。俺は嬉しさに声を弾ませたことだろう。

「最後の灯火を燃やしてよくもこう話せるもんだ。死の恐怖はないのか?」

「もちろんあるさ。なんせ理性を授かっちまったからな。そうでなきゃ何も考えずに死ねたんだ」

俺にもその気持ちがよくわかった。ゆえに、生きる理由を求めるのだと思う。

蛍は続けて言う。

「嗚呼熱いぜ、体がこのまま光に飲み込まれるんじゃないかってくらいにな。でもなあんちゃん、我は今幸福に包まれてるぜ」

「幸福?」

「あぁ。立派な生きる理由なんてなくとも生きた理由は自ずとついてくるもんさ」

蛍はそう言うと光の流れに戻っていった。最後の瞬間まで光になろうとしているのだった。

俺は、僅かで貴重であるはずの彼の時間を使わせてしまったことに深く感謝した。命こそ尊いという考えは理性的だろうか? 引き寄せられるようにして落ちゆく蛍火を見つめながらそんなことを考える。再び深い闇が訪れると今度は星々が頭上で瞬き日を跨ぐ。このような調子で世界は回転しているらしかった。

それからも意思疎通のできる存在と度々遭遇した。細草に乗っかっていたキリギリスも理性を持っていたし、電線に止まっている雀とも話した。人間の里に近づくほどその傾向は顕著になっていき彼らはもはや俺の知る動物とは異なる存在に思えた。しかし、考え方はいずれも動物的でその点で同じだった。彼らはただ話せるというだけだったのだ。

それらの事実はますます自分の存在を有耶無耶にした。俺はどこから生まれ出てどこへ行くのか。砂漠を歩いているような感覚。心なしか焦燥しているようでもあった。

森から出て数日、俺は空腹だった。人里近いこの地に満足いく食料があるとは限らなかった。人が栽培している苗を喰らおうかとも思ったがやめた。他に食べられるものが有ればなんでも食べる気でいたが、そう見つからず限界が近づいていた。思考が徐々に鈍くなっていた。

田んぼから少し歩くとふと一軒の古びた民家を見つけてしまった。人里に近づき過ぎたと反省しながらも、その民家からは人の気配を感ぜず安堵する。静かに近づき危険がないことがわかったので中を物色することにした。

スライド式のドアをガラガラと開けると不気味な静けさがあった。以前は人が住んでいたという事実を沸々と思わせる。内装は綺麗に保たれており歩きやすい。荒らされた跡もない。

ふと大木でできた柱に目がつく。そこには黒のマジックで「悪戯注意されたし」と書かれていた。

間取りを確かめるように一部屋一部屋見て回るが特に面白みもない。人間の生活が窺い知れるというだけで興味すら湧かない。そういえば空腹を満たす食べ物を探して歩き回っていたのではないか。このような古民家に食べ物などあるはずもない。そう思い廊下に出ると笑い声がした。

「ふふふ」

声の方を向くと黒髪をあかっぱにした少女が微笑んでいた。気になることに彼女からは気配が感じ取れない。

「お前は人間じゃないな。何者だ?」

「ふふふふふ。私は人間にはこう呼ばれるよ、座敷童って」

おかっぱの少女は続けて言う。

「君は幸運だよ」

「幸運?」

「人間たちがよく言ってるんだよ、座敷童を見たら幸運に恵まれるってね。私は悪戯しかしていないのに珍しいからと言ってよくまぁ都合よく解釈できるよね」

なるほど、この座敷童と言う名の少女は人間でもましてや動物でもないらしい。ゆえに彼女もまた化け物なのかもしれないが、人間には好意的な目で見られているようだ。そこで訊きたいことがあると言うと短くなに? とだけ答えた。

「お前の生きる意義はなんだ?」

少女は嗤う。

「生きているだなんて思ったことはただの一度もないけれど、まじめに答えるならばそうだね。人間が私に名前を与えてくれたから、かな。私には名前がある。ゆえに私は実存するのさ」

その回答はとても興味深かった。森に篭っていても到底達しえない叡知のように思えた。

「ふふふ、これも人間の教えだけどね。歴史を学ぶといいよ」

座敷童と名乗った少女はそう言って見えなくなった。

俺はようやく理解できた。

彼女が言っていることがすべてだった。人間が噂し、その名前が、意味が広がればまさしく存在し得るのだと。ゆえにこの身を与え、意味なるものにしたのは人間に他ならなかったのだ。

もやもやが晴れ、頭が冴えた。生きる意義を考えることも無意味だと悟った。人間が化け物と呼ぶのも納得だった。俺は人間から嫌われる存在として名も無き化け物として既定されている。きっとこれから芽が出るように俺の名前が与えられるのだ。どれだけ時間が掛かるのかは知り得ない。その間に俺の子供が生まれかもしれない。そして、いつの日か自分の名前を悟る日がくるのだ。これが座敷童が最後に言った歴史というものなのかもしれない。俺はその大きな広がりを見せる記号に思いを馳せて生きていかねばならないのだ。

俺は森に帰ることにした。もう十分だった。心の苦しみはすべて取り除かれ、もう心配などなかった。

するとその時、二人の男女が森の方から降りてきた。彼らは当然俺のことを見て叫びながら走り去っていく。俺が思うところは何もなかった。

しかし、さらに進んだ先で見つけたそれには多少驚かされた。そこには、ダンボール箱の中でタオルを寝息を立てる赤子がいた。清潔な布で包まれておりとても安らかにしていた。

側面には「まだ名前はありません。もしこの子を生きて見つけた方がいたなら名前をつけてやって下さい」と、か細く書かれている。これは彼らのささやかな願いであり、同時にどろどろとした罪悪感の慰めでもなのだ。

俺はその赤子を起こさないように小さく語りかけた。

「お前の名前は俺はつけてやる」

と。そのとき風が吹き、木々が揺れた。落葉がひらひらと舞い赤子の頬を撫でる。赤子は笑っているようだった。



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