ARIA 「ヒーリングアニメ」ということ

ARIAというアニメがある。水で覆われた惑星AQUA、そのネオヴェネツィアで紡がれる、一人前の観光案内人を目指す少女たちの日常を描いた作品だ。よくヒーリングアニメと謳われる本作だが、その人気は計り知れない。原作は天野こずえ先生による漫画ですでに完結して久しいが、新劇場版の制作が発表されSNSで話題沸騰となった。アニメ一期は2005年、2006年にアニメ二期、2008年にアニメ三期が各放送。2015年には数年後の世界として新キャラクター三人を主軸にアニメが制作された。ここまで愛される作品はそうそう見ない。知名度に関しては、古い作品ということであまり高くないように思えるが、名作として今なお語り継がれる稀有な作品のように思う。つまり、隠れた名作というわけだ。私も、存在こそ数年前から知っていたものの視聴する機会こそ無く、コロナウイルスが猛威を振るう昨今、ようやくその機運が高まり視聴した。そして、想像以上におもしろく、ARIAの世界にはまってしまった。否、はまりすぎてしまった。三期最終話を視聴し終えたときは心が途端に崩れてしまったようだった。即刻すがるように原作コミックを通販にて購入し読み耽った。そうして、心が次第に落ち着いていったのでよかった。癒しを求めて視聴したARIAは麻薬のように強烈に私の心を支配し、一時的にARIAなしでは生きられなくなったのだからおかしい話だ。ARIAが終わってしまったという心のわがかまりは結局天野先生の包み込むような優しい世界をツイッターで観測し、霧散したのだった。なのでARIAがいかに愛される作品かは私自身とてもよく分かっている。私はARIAを愛しているから。それこそ単行本が460万部売れているだとかそういう数字だけで語られるものでもないとも思う。この愛は膨大で語りつくせない気さえするのだ。

ゆえに、私は考えてしまう。ヒーリングアニメという謳い文句は足り得ていないと。ARIAにヒーリング、癒しがあるのは確かだ。しかし、やはりそれだけではない気がする。うまく言語化できないなにかが、癒し以上に心の水面を撫でるなにかがあると思う。それらをうまく言語化することは私にできそうもないが、いやむしろ、ヒーリングという単語が、意味内容の枠が頭の中に作られる膨大な情報量の器としてあるのかもしれないと考えることもできる。なにせ悔しいことに「ヒーリング」ほどうまい形容が出てこないのだ。そもそも「ヒーリング」が癒しという限定的な意味を持っているわけではないのかもしれない。それは「ヒーリングアニメ」を言葉に出してみたとき我々がどう感じるかの問題だ。ここまでくると哲学だが、あなたはどうだろうか。「ヒーリングアニメ」と聞いて「癒しアニメ」と捉えるか「ARIA」と捉えるか。

最初に述べたように私は足りないと思った。それは、私がARIAを愛しているからに他ならないのだろう。ヒーリングという言葉には間違いなく愛なんて意味はない。この私の愛を、受けて止めてくれる器さえあれば満足するのかもしれない。いずれにせよそのような言葉は見つからないだろう。ARIAは「ARIA」なのだ。これ以上綺麗な言葉はあまりないだろうから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?