見出し画像

変化

久しぶりのnote。

7ヶ月前の最後の記録を見て、涙が止まらなかった。

苦しんでた。もがいてた。不安でいっぱいだった。だけどどこかに希望を抱いてもいた。

当時の私はとにかく孤独だった。実際の状況も、心も、精神も。

自分の存在意義がわからない。居場所がない。誰が私を必要としてくれるの?そもそも必要となんかされないんじゃないか。

自分の価値がわからない。居てもいなくても変わらない。どこで何してようが誰にも見られてない。気にもされてない。そんなことばっかり思ってた。

実際、居場所を求めて放浪ばっかしてた。誰かに見つけて欲しかった。

確かに自分は存在しているし生きてる。でもどこかに所属していなければ、何かと誰かとつながりを持っていない自分はただの「ひとりの人」

一人の時間は好き。だけど孤独は違う。

ずっと抑鬱状態だった。感情があるようなないような。

思い切って人に胸の内を打ち明けて弱さを見せたこともあったけど、否定されたり正論で返されたり上辺でしか聞いてもらえなかったとき、これ以上ないってくらい傷ついた。

この世の終わりかってぐらいに絶望して誰も信じられなくなった。誰とも話したくないし会いたくない。

連絡を取ることもできないほどに強固な壁を作って自分を守ろうとしてた。本当に精一杯だった。

今思うと、そこまでして守ろうとしてくれた自分自身には感謝でしかない。

それまでは周りに期待したりわかってほしいと思っていたけど、

自分でしか自分を守れない。自分が自分の一番の理解者でいなきゃいけないんだと強く感じたりもした。


鬱になる時って、もう無理!!って頭や体が強制的に機能停止して、本人をその状態から引き離して止めるためになるというけど、その通りだと思う。

人それぞれ耐えられること、反応することも程度も範囲も種類も違うから、誰かと比較するものではない。

自分自身の無理や限界のラインを自覚できてる人ってなかなかいないと思う。だから機能停止、思考停止状態になってようやく気づく。

私は、そういう状態を経験できて良かったと思う。

経験する前と今では思考も行動もかなり変わった。

私に刺さって結構な面積を占めていた大きな重たいネジが、ゴロッと外れて消えてしまったような感覚。なんだか軽い。

もちろん残っている部分や性格や気質はあるけど、自分の「無理」のラインや何が「無理」なのかも考えたり気づくことができた。

だからもうそいう「無理」なことはしないで、心や感覚を大事にしたいと思えるようになった。

「無理しない」ってことと、「自分の感覚を大事に従う」ということに許可が下りた。

無駄な経験はひとつもなくて、どんなことでも、なぜそうなったのか、何に気付いたのか、何を学んでるのか。いちいち考えれば良い。

自分に寄り添って共感しながら考えてあげれば、いつでもいつまでも味方でいられる。

誰かにわかってもらわなくても自分がわかってるってことが、安心感に繋がったりする。気持ちが穏やかになる。

そうやって自分に優しくできていると、周りの人に対しても優しくなれたりする。

あんなに孤独を感じてたけど、今はそうは思いません。良かったね私。

必要な出会いやご縁は必ずあって、必ず何かしらの気づきと学びがある。

自分の感じ方次第。思考と行動が現実を作り出し、現実に投影されてるんだと思う。

それならば、穏やかに。優しい気持ちで、朗らかに過ごしたい。


今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?