見出し画像

散文的セクシャリティ考察

自分が無力だなと感じることって、けっこう多い。


ものごとが自分の理解の範疇を超えているときとか、

伝えたいことがあるのにそれをうまく表現する言葉が見つからなかったりとか、、


セクシャリティについて考えるとき、私はそういう無力感みたいなものを感じる。

性自認だとか女性差別だとか男女平等だとかフェミニズムだとかLGBTだとか・・・いろんな専門用語が生まれているし、それに関する文献もたくさんある。


だけど自分がセクシャリティについて書くとなると、〇〇だから××であって、〜〜なのである。みたいな明快な文章を書ける気がしない。


それは、私にとってセクシャリティというのがどこまでも個人的で生々しい、身体的・経験的・感覚的なテーマだからだろう。



*****

さいきん個人的にセクシャリティについて考えることが多く、加えて6月28日からここマドリードではワールド・プライド(Orgullo gay)というLGBT文化を祝う週間をやっている。


そこで感じたことを、なるべくそのままの形で書き残しておこうと思う。

ぐちゃぐちゃで何が言いたいのかわからない文章になるかもしれない。

だけど、そうでなければ大切な要素がボロボロとこぼれ落ちてしまう気がする。



*****

ワールドプライドの始まる前夜、わたしたちは会場となるチュエカ地区の広場にいた。


すでにレインボーカラーの旗を持って集まる若者たちを見ながら、地べたに座って缶ビールを飲む。


私の向かいにはコロンビア人のレズビアンカップルがいて、その一人が自分たちの国で同性愛者であることがいかに難しいかということを話している。

彼女の口調は怒りを含んでいて、苦しいことがたくさんあったのだろうと私は思う。

もう一人の彼女は隣で何も言わず黙っている。


明日の開会式、みんな行くよね、と誰かが言う。



*****

開会式は20時半だった。この時期のスペインは21時まで日が沈まない。

汗をかきながら会場の広場に向かう。

やっと友人たちと合流したが、次から次へと友人の友人・・・と集まってくるので全員集合するまでに1時間以上かかる。スペインだなあ、と思う。



道で何かを配っていたのでもらうと、コンドームだった。

それを見た友達が(コンドームを配るというのは)良いことだよね、と口々に言う。


日も沈んで、ステージではコンサートが始まった。

広場が人でいっぱいだった。

みんな缶ビール片手に、音楽に身体を揺らしていた。



サングリアの未開封のペットボトルが、ごろりと私たちのところに転がってくる。

わたしたちは「大地の恵みだ」とそれを拾う。友達が恐る恐る飲んで、大丈夫と言う。私も恐る恐る飲む。普通にサングリアの味だった。

何か冒険をしたような気分になってわたしたちは笑う。



若い女の子が、突然電灯によじ登り始めた。軽々と猿のように登ったので、周りで見ていたわたしたちは歓声を上げた。

彼女は上に到達すると、持っていたレインボーカラーの大きな旗を振り回した。


私は幸せだった。

それは音楽の力やお酒の効果でもあるかもしれない。

だけどその瞬間、わたしたちは、みんな一緒に、男でも女でもなかった。


境界線が夜に溶けて、たましいが自由になる気がした。



*****

友人に誘われて、中東の国のLGBTの人たちの問題を扱ったドキュメンタリーを見に行く。

例えばスペインでは、同性でも結婚することが可能だ。それは法的に認められた権利である。

その一方で、同性愛者であることで死刑になる国もある。

(こちらのNational Geographic のサイトに最新ではないがわかりやすい地図が載っている。http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/062100038/)



そのドキュメンタリーに出ていた男性は、同性愛者であるというだけで全てを失い、家族は彼を殺そうとした。


最終的に、国連の人権保護のシステムを利用してカナダに逃れるのだが、過去を振り返りながら彼は言った。


「(カナダに着いた時)私はすべてを赦したのです。」


私は彼の「赦す」という言葉について考えつづけている。

それは一体どんな意味と重みを持った言葉なのだろう。



*****

正直なところその数日間、私はリベラルの最先端のようなところで、似たような価値観をもつ友人に囲まれて、幸せに過ごしていた。

優しい世界だ、と思った。

まだまだ問題はあるけれど、世界はより良い方向に変わろうとしているんだと。



そんなタイミングで、運命なのかなんなのか、顔面に冷水を浴びせられるような事があった。

日本人の30代男性数名が集まる飲み会に参加した、とだけ言っておく。女は私だけだった。


私は新しい人と知り合うのがわりと好きだ。

だけどその飲み会で、私はほとんど自分の話をしなかったし、その人たちのこともほとんど何もわからないままに終わった。


会話の話題はほぼずっと、「綺麗な女」の話だった。


私は愛想笑いを浮かべながら黙って(こういうとき、自分の中にある日本的な”事なかれ主義”を強く感じる)、何か自分が食いつきたくなる話題にならないかと待っていたけれど、最後まで「なぜこの人たちはこの話で盛り上がっているんだろう」と考えつづけて終わった。



この話を書くかどうか随分迷った。

別にその人たちを個人的に攻撃したいわけではなくて、多分それが、いわゆる普通の価値観なのかもしれない。

それに、たまたまその日はそういう話題が多かっただけかもしれない。

そもそも、別に綺麗な女を好きだって構わないし、キャバクラに行こうがなんだろうが個人の勝手だ。私だって見た目の美しい人が好きだ。



ショックだったのは多分、彼らの言葉の裏に見えた「女性像」なのだ。

そしてその像を具現化しようとする女性がたくさんいるということが(既婚者ばかりだった)。

その女性像は、女である私にも跳ね返ってくるということが。



私の敬愛する心理学者の河合隼雄さんは「とりかえばや男と女」という本の中で、男であるか女であるかに関わらず、わたしたちの中には「男」と「女」が存在していると言った。そしてその二つの源になっているのは両性具有的なイメージで、「たましい」とでも呼ぶべきものだと。



その日はとにかくモヤモヤとして終わったけれど、少し落ち着いた今なら自分のそのときの気持ちがわかる。

男性的なエゴのみを反映した彼らの女性像イメージに対して、なぜ「たましい」を見ないんだ、と私は怒っていた。

それもけっこう猛烈に。



*****

次の日もモヤモヤした気持ちを引きずりながら、私はスポーツジムに行ってプールで泳いだ。

水の中は冷たくて静かで、だんだんと頭の中が冷静になっていく。



突然、「与えよ」という言葉が頭に浮かんだ。

・・・いや、こんな風に書くと神の啓示みたいでかっこ良く聞こえるけど、もう少し正確に言うなら、「いや、与えろよ」と言う自分の自分に対するツッコミのようなものだ。



男女という仕切りで二つに綺麗に分けようとする二元論に反発しながら、私も結局のところ、「自分と価値観を共有する人」と「そうでない人」の二つに分けて、歩み寄ろうともしなかったのだ。


彼らに対して「もっとちゃんと見てよ」と求めておきながら、私は彼らに何か与えただろうか?あるいはこれから与えられるだろうか?


もっと言えば、(無意識的だとしても)彼らもまたシステムの被害者なのかもしれないじゃないか。

そういう「男性像」を求められたから、彼らはまたそれに合う「女性像」を求めているのかもしれない。



与える、というのは愛する、と同義だと思う。

そしてたぶん、赦す、ということでもある。

私はまだまだ、人に与える力が足りないな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?