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ひととひととが繋がる書店をつくりたい 〜大学生書店員 奮闘日記〜【その1】

もう我慢の限界だ。


いや、ずっと前から耐えてたのかもしれない。
でも今、ことばにしてしまったからか、言葉が脳にこびりついて離れない。

「書店をつくりたい」

まず私について説明すると、京都のある大学に通い、今年の春から五回生になった人間である(「なってしまった」の方が正しいのかもしれない)。

アルバイトで祇園のブックカフェで働いている。時々「読書会」と称される、スタッフとお客さまで本の紹介をしあい交流を深めるイベントを開催している、いわゆるイベントスペース、コミュニティースペースのような働きを持つ、特殊なブックカフェである。

そこでの業務はだいすきだ。常連さんとお話したり観光で訪れたお客様におすすめの観光スポットをお教えしたり。もちろんブックカフェとして書店業も怠らない。「おすすめの本はなんですか」「普段本を読まないのですが、わたしでも読める本を教えてください」と聞かれると、私の知識をフル活用して本を紹介する。次回ご来店されて「あの本面白かったよ!」と感想を言っていただけるのがやりがいを感じる瞬間だ。

そんな経験をバイト先でしている最中、ある記事が目に入った。

「若者の読書離れ」急増

目を見張った。
私には何の実感もないトピックだったからだ。
ありがたいことにアルバイト先は本を取り扱うため本を読む人は多く、また周辺の大学コミュニティも読書をする人間が多い。読んだ本を報告するアカウントも活発に動いている。

確かに、電車に乗ると読書をしている人は少なく、画面を見つめる人が多い。電子書籍という可能性もあるが、指の動き的に電子書籍ではなさそうだ。(これで趣味が人間観察であることがバレただろうか)

そうか、最近の若者は皆読書をしないのだな。と少々悲しくなったのは事実である。

ではなぜ読書は必要なのか?

書店に勤めているから、自分が読んでいるから、無意識的な価値観の押し付けではないか?読書信者怖いぞ、と辛い意見をいただくことは否定できない。
読書とは極論「所詮趣味の範囲」と言われても仕方がないだろう。

ではこれをきっかけに、私の個人的な意見ではあるが、「なぜ読書は必要なのか」を俯瞰してみよう。

  1. 現実逃避:気疲れすることが多くなるくらい、社会は情報で溢れかえっている。例えば顕著な例としてはSNS、特に私の場合Twitterがあげられる。大学付近のコミュニティを広げるためにTwitterを使っているが、やはり「必要としていない情報」も目にうつってしまいがちである。最近だとリストカットの画像や事故の動画、動物の死骸などセンシティブ制限のフィルターを乗り越えた投稿が無責任に私のメンタルを刺激してくる。情報過多で逃避行動を求める、その先にある「読書」が私の中では最大の価値を持つコンテンツである。入念な校閲を経た文字情報は、刷られたまま変化をせず簡潔な動線で真っすぐ読者を導く。ジャンルもある程度、あらすじや帯などで説明されているため心構えができる。その安心感は他のコンテンツではカバーできない唯一無二の存在ではないだろうか。

  2. 想像力の育成:本は「説明しない」コンテンツであるため、自分の想像力で補わなければならない。つまり、その想像力が様々な思考に作用するのではないかと思う。例えば映画やドラマは「視覚情報」、つまり演者がどのような舞台でどんな表情や声色で表現しているのかが、ある程度は製作者側で指定されているのが当たり前だ(無表情という顔ですら表情の一部であることは頷けるだろう)。しかし本は文字情報のみで私たちに語りかけるため、読者側の想像力に委ねられている。それがいかなる作用をもたらすのか、学者ではないので断言はできないが、描写を想像力で補うために、脳味噌にビビッと刺激がいっているのは確実だ。

  3. 友だちができて楽しい!:ここは敢えてシンプルな言葉で表現するが、まさにこれが読書を介して得られる最大の魅力だと思う。世界広し、ならば本の世界はもっと広し。同じ作品を読んだことがあったり、同じ作者が好きだったり、そこで得られる人間関係はシンプルではあるがその分一気に仲がグッと近づくのではないだろうか。

後半にかけて何とも拙い理由だと嘲笑されそうだが、少しでも心当たりがあれば筆者としては嬉しい限りである。

読書の魅力はここまで。
次回は書店が持つ現状について、自身の経験や資料をもとに言及してゆく。

つづく

【おまけ】なぎのおすすめ本一冊

『せいいっぱいの悪口』/堀静香(百万年書房)
感受性が敏感である、人間をこころから好きになれない。そんな渦巻いた感情を、掘さんが身を呈して肯定してくれるような一冊。作中に掲載されている短歌がすきです


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