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猫を釣りに行こう!

<<『精一杯の嘘」第三話-手をずっとこうしていたいの->>より

私の少し前を歩いていた彼は振り返ってこう言った。

「釣り道具を取りに戻って
歩いて行ける港まで釣りに行こう、猫を釣りに行こう!」

「猫?猫ってあのニャーって鳴く猫?それとも、ネコザメとか?」

猫を釣り竿で釣るなんて・・・
そんな可哀想なことを猫好きの彼がする訳ない。
何のことか分からなくて、真顔で尋ねた。

「まあ、行けば分かるよ」

詳しいことを教えてくれない。

駐車場に停めてある車のハッチバックを開け
釣り竿とタックルボックスと釣った魚を入れる布製のバケツと
ビールとワインと氷が入った重たいクーラーボックスを車から降ろした。

私は軽い布製のバケツ
彼はクーラーボックスを肩にかけて
両手に釣り竿とタックルボックスを持った。

ここから歩いて10分くらいのところに小さな港がある。
そこは昔、銀の積み出しを行っていた港で現在は漁港として使われている。

漁港までは緩やかな坂道がずっと続いていて、歩くと少し息が上がった。
ビーチサンダルの鼻緒が足の親指と人差し指の間に食い込む。
サンダルの底が薄くて、地面からの衝撃がそのまま足裏に伝わり痛い。

「重いでしょ?私も持つよ」

息を切らしながら彼に言った。

「大丈夫だよ」

彼はそう言って歩き続けた。

道の途中に街灯はひとつだけしかなくて、足元も見えない程真っ暗。
いつもなら、暗い夜道は怖くて歩けないのに
彼と一緒なら全然怖くなくて、この先に何があるか判らない夜道も
もっともっと歩いて行ってしまいたくなる。
好きな人が傍に居るだけで、何でも出来そうな勇気が湧いてくる。

着いた漁港は、深い入り江になっているみたい。
外からの明かりが遮られるからか一層暗く感じる。

「広島ナンバーの車が多いな
ここの釣り場も有名になって人が多くなった」

彼の言う通りに防波堤の真ん中には釣りをしている人が4.5人いた。

目を凝らして暗闇を見つめると
防波堤の先に灯りの付いていない小さな灯台が見えた。

彼は先にすたすたと防波堤を灯台の方へ歩いて行ってしまった。
バケツを抱えて歩いていたから、よく足元が見えない。
しかも、辺りは真っ暗だから、海に落ちてしまいそうでとても怖かった。
でも、その先には彼がいることが判っていたから
彼がいる方へ怖くても歩いて行ける。

彼はおでこにヘッドライトを付けて明かりを取り
防波堤の先にある灯台の下で小さなかごに餌を入れていた。

「ごめん、ごめん、オレ、先に行っちゃって」

彼は私の姿を見つけると、ごめんと謝った。

「大丈夫だよ、ここにいるの分かったから」

かごに入れている餌はオキアミという小さなエビの仲間で
匂いがとてもキツイ。
それを水の中に入れて
寄ってきたアジを引っ掛けて釣る「サビキ」という方法。
釣り竿を海に投げるのではなく、水の中にぽちゃんと入れて上下に振る。

「ビール貰っていい?」

彼はクーラーボックスを開いて
プレミアムモルツの缶を手に取りプシュッと開けた。
さっきもお店でビールを飲んでいたのに
そんなに良く飲めるなぁと思いながら
ゴクゴクとおいしそうに飲む姿を見ていた。
釣り竿を引き上げると、かごのオキアミはもう無くなっていた。

「釣れないな、餌のアジが釣れない」

そう言って、もう一度かごにオキアミを入れて海に落とす。

餌のアジ?
何のことか判らずにいた。

コンクリートの防波堤の上に腰掛けて、足を海へ投げ出すように座った。
7月なのに夜の海は寒くて両腕を抱えて震えながらごしごしと擦っていた。
おしりがゴツゴツと痛くて
足元からヒンヤリとした空気が這ってきてつま先が冷えて寒くなってくる。
半袖の薄いブラウスに足元はビーチサンダルという格好で来て
しまった、と思っていた。

「寒い?寒いのか?」

上着を脱いだらTシャツ一枚なのに、彼は着ていた上着を脱いで渡した。

「○○さんは寒くないの?」

「オレは大丈夫、でもおかしいな、釣れない、釣れない」

彼の上着に袖を通すと、柔軟剤のいい香りはしなくて
汗臭いでもなくて、タバコの匂いでもなくて、彼の匂いがした。
彼の匂いに抱きしめられて、切なくて泣き出しそうになり
自分の両腕をギューっと抱え込んだ。
彼に抱き締められたいのに。。。
涙で鼻をぐすぐすとさせていたら
本当に寒いのだと勘違いした彼はこう言った。

「ちょっと早めに帰ろっか」

灯りもない真っ暗な海で、波の音だけが聞こえる。
入江になっているから余計に暗く感じる。

夜の海が怖くて苦手だった。
それは足元が見えなくて、海に落ちてしまうからではなくて
何か見えないものに海の底に引っ張られてしまいそうな恐怖を感じるから。

怖いのは11年前の震災の津波を思い出すからだろう。
震災以来、何となく海に近づくことを避けていた。

彼と一緒なら海が怖い気持ちも少し薄れて来ていた。
記憶はこうして上書きされて
時間が経てば嫌な思い出も薄れていくものなのだろう。
だから人間はこれ以上生きて行けないと思う出来事に出会っても
乗り越えて生きていけるのだと思う。

いくら待っても何にも釣れなかった。
気づいたら、周りに人はいなくなっていて私たちだけになっていた。
彼は「こんな日もあるよね」とアジを釣るのを諦めて
残ったオキアミを海にばら撒いた。

釣り竿を畳んで、ビールの空き缶をクーラーボックスにしまった。
彼はクーラーボックスと釣り竿
私はバケツを持ち立ち上がって防波堤を戻ろうとした。
ふと、暗闇に人がいることに気づいた。
直ぐ後ろで、おじさんがひとりで釣りをしていた。

「どこから来たんですか?」

「広島です、全然釣れないですね、こんなことってあまりないね」

彼はそのおじさんに話しかけると、おじさんは親し気に答えた。
私は知らない人に話しかけることがあまりないから
それが出来る彼が羨ましくなる。

さっき来た防波堤をふたりで歩いて帰る。
歩いていると冷えた体が少し温まってきた。
岸に着くと、彼は戻る方向とは反対へ歩いて行こうとする。
こっちを歩く方が近道なのだろうかと思いながら、彼の後を付いて行った。

「見て!」

彼は急に立ち止まり夜空を指さした。
見上げた夜空は真っ黒ではなくて、群青色とでもいうのだろうか
青みがかった濃い紺色をしていた。

「あれが夏の大三角で、向こうに見えるのがカノープス
りゅうこつ座ってやつだね」

彼は空に大きな三角形を描きながら教えてくれた。

「わぁっ!カノープス!」

思わず声が出た。
山の向こう側に赤味がかった星が見えた。
生まれ育ったところはカノープスが見える北限だけど
周りに高い建物があったら見えない。
実際に肉眼で見たのは生まれて初めて。

「今日はちょっとガスが出ているな、こっち来て、天の川が見えるよ」

彼は道の上にごろんと横になった。
そして、地面を手のひらで叩く真似をして
私も横になるようにと仕草をした。
暗くて何があるか見えない道の上にゴロンと仰向けになった。
ふたりで寝転んで天の川を見上げた。

アスファルトで背中がごつごつした。
薄いブラウスを通して伝わってくる
昼間の太陽で温められたアスファルトの熱は
夜の海で冷えた体にちょうどいい温かさだった。

「天の川って英語で何ていうんだっけ?」

「ミルキーウェイ、牛乳を零したみたいに白く見えるからだよね
天の川なんて見たの久しぶり」

実家でも天の川は何となくは見えるが
ここまで星を敷き詰めたような白い空を見たのは初めて。

彼の言葉を思い出していた。
「ここに来たら本物の星空をふたりで見よう」
彼はあのときの約束を覚えていてくれた。
胸がいっぱいになり、手を伸ばして彼の手に触れたくなった。
そのとき、彼がぼそっと呟いた。

「子どもに地べたに横になるなとか、猫を触らせるなとか怒るんだよな
猫はウィルスを持っているからダメだとか」

「え?誰が誰に怒るの?」

話の流れがよく判らずに尋ねた。

「姉ちゃんに言われた」

「お姉さんていくつ年上なの?子どもは何歳?女の子?男の子?」

確か、彼はお姉さんがいるとライブ配信で言っていたけれど
詳しいことを聞いたことは無かった。

「オレより2歳上で子どもは5歳の女の子」

「じゃあ、遅くにできた子どもなんだ、お姉さんはなにやってるの?」

「社会福祉士やってるよ」

「どこに住んでるの?」

「広島だよ」

「そうなんだ」

彼は帰省したお姉さんに怒られて、逃げる様におばあちゃんへ行き
それからずっと、そこにいることを教えてくれた。
でも、怒られた詳しい理由を話してくれなかった。

お姉さんの気持ちを想像してみる。
私にはひとつ年下の弟がいる。
弟は38歳のときに産まれた4歳の息子を溺愛している。
家族のグループラインがあり、弟はそこに毎日のように
息子と公園で遊ぶ動画や幼稚園の参観日の様子などの動画を送ってくれる。
遅くにできた子どもは可愛くて仕方ないらしい。
息子をとても可愛がる弟を見ていると
彼のお姉さんの気持ちが分からない訳でもない。

でも、彼の話を否定も肯定もせずに、そっかと聞いていた。
それ以上は何も言えなかった。

「流れ星を3回見たら帰ろう、あっ、そこにひとつ見つけた!」

彼は一つ目の流れ星を見つけたようだ。
夜空は広くてどこか一点を集中して見ないと、流れ星は見つけられない。

「ほら、また、あった!」

彼は直ぐに二つ目を見つけるが、私は見つけられない。

「えー、全然見つけられない」

そう言った瞬間、視界の右上をさっと流れ星が横切った。
一秒もないくらい本当にほんの一瞬。
でも、帰りたくなくて、わざと見つけられないふりをした。
手を伸ばして、隣にいる彼の手に触れたかった。
でも、できなかった。

「あった!三つ目見つけた、よし、帰ろうっか」

彼は三つ目の流れ星を見つけると、そう言って立ち上がった。
私もゆっくりと起き上がった。
荷物を持って歩き出した。
来た道に戻る方向を少し歩くと
背丈の低い木が茂っている藪のようなところがあった。
その茂みから「ニャァ」と鳴き声が聞こえて2匹の猫が現れた。
白い猫とその猫より一回りくらい小さい黒い猫だった。
母猫と子猫だろうか。

「ごめんね、君たちのご飯のアジが釣れなかったんだ」

彼はしゃがんで猫の親子に話しかけた。
そこで、ようやく私は猫釣りの意味を理解した。

「猫釣りって、アジで猫を釣ること?」

「正解!」

彼は遅いよ!という顔をしながら正解と言った。
でも、アジは釣れなかった。

彼は、あっ!と思い出したようにクーラーボックスを開けて
モッツァレッラチーズを取り出した。
袋を破りチーズを千切って、猫の親子に向かってほらっと優しく投げた。
猫の親子はチーズに走り寄って来た。
アジをもらえると思っていた猫の親子は
たぶん初めて見るだろうモッツァレッラチーズに戸惑っている様子だ。
くんくん匂いを嗅いではちょろっと舌で舐めるだけ。
でも「ここで食べないと、もう何も食べられないかもしれない」
猫の親子は観念したようにチーズを食べ始めた。

「ごめんね、ちゃんとしたモッツァレッラチーズじゃなくて
牛乳の匂いは初めてなのかな」

彼は猫の親子に話しかける。

「この子たちは野良猫かな?」

彼からチーズを貰って、猫にあげながら言った。

「たぶんね、ほら、顔のところ病気している」

母猫の顔を指して言った。
鼻の上にぷつぷつと出来物のようなものがあった。

「可哀想、連れて帰る?」

彼はラインのアイコンも猫の肉球にしているくらい猫好きだから
この子たちも飼って貰えるかもと期待して無邪気に尋ねた。

「いや、もう家にはクロっこがいるし」

クロっことは、彼の実家で飼っている猫のこと。

「猫って長いと10年以上生きるでしょ?長生きする子だと15歳とか
オレ、そのとき60歳だよ、そんな長生きしたくないし」

彼はもう猫に限らず生き物は飼いたくないと言った。
そんなに自分は長生きしたくないからと悲しくなる理由から。
暗くて彼の表情は良く見えなかったけれど
無表情というか諦めというかそんな表情をしているようだった。

彼の言葉に不安になる。
なぜなら、彼の子どもが欲しいと思っているから。
彼は自分の子どもを見たら、どう感じるだろうか。
もう少し子どものためにこの世界にとどまっていたい。
でも、その思いが彼をさらに苦しまてしまうだろうか。

彼の生きた証を子どもを産むことで残したい。
そう、決めたんだ。

一台の車が入って来た。
猫の親子はライトに驚いて逃げていった。

「あっ、待って」

私の手にはまだモッツァレッラチーズが残っている。

「これどうしよう」

「ちょうだい」

彼は私の手からモッツァレッラチーズを取ってパクっと食べた。

帰り道は下り坂になり、荷物を持っていると前につんのめりそうになる。
私はバケツの中にタックルボックスを入れて両手で持ち
彼は釣り竿を手にして、重たいクーラーボックスを肩にかけている。

「クーラーボックス半分持つよ」

クーラーボックスの持ち手に手を伸ばそうとした。

「大丈夫だよ」

彼はよいしょっと肩にかけ直して
肩の負担を減らそうと持ち手を左手で持ち上げた。
私が持つことを「大丈夫だよ」と頑なに拒んでいる。
だから、クーラーボックスの持ち手の片方をひょいと彼の左手から盗んだ。

「ほら、ふたりで持つと軽くなるでしょ?」

「ほんとだ、軽くなった」

笑ってくれた。

あなたの抱える重い荷物を私も半分持つよ。
ひとりで抱えることないんだから。
そうやって、ふたりで半分こして生きていこうよ、そう思った。

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