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言葉の『意味』を深められたら。

あれはたしか大学2年のとき、「文化人類学」の講義だったと思う。

教授の顔も講義の内容もほとんど覚えていないけれど、たびたび聞こえる『イデオロギー』という言葉が引っかかった。

「これこれにはこういうイデオロギーが根底にあった」
「この時代の社会はこういうイデオロギーによって」

そういう風に何度も繰り返される言葉、『イデオロギー』。
当時の私はぞっとするほどモノを知らず、この言葉の意味がさっぱりわからなかった。耳慣れない言葉は頭の中で自動的にスルーしがちだけれど、何度も出てくるこの言葉に目をつむると講義の内容が丸ごとわからなくなった。この講義では『イデオロギー』がキーワードだったのだ。

大講義室でスマホを取り出し、ググった。「イデオロギー 意味」
だいたいこんな内容が出てきた。

イデオロギー〈ドイツ ideologie〉
①(哲)観念形態。②政治や社会生活の様式を決定し、人間の行動を律する根本となる考え方・思想体系。主義。政治的主張。思想傾向。
                    (旺文社 国語辞典 第十版)

うーん。よくわからないなあ。要はこの言葉自体が観念を表わしているんだ。文脈によって意味が違うんだな。この教授はどういう文脈で使っているんだろう。

ついでに語源も調べてみる。

ネットによれば、日本で使われているのはドイツ語由来のカタカナ言葉だけど、もともとはフランス語が語源らしい。『観念』という意味の『イデア(idea)』と『思想』という意味の『ロゴス(logos)』の造語と言われている。

「あるものをどう見るか」という『観念』『理論』『認識』だけじゃなくって、そこに通底する『思想』も含まれているのか。だからちょっと政治的なにおいとか、根っこの深い考え方という語感があるんだ。

たとえば『習慣』とか『言語』とか、簡単に変換できるカタカナ言葉なら「なるほどー」と納得して、その後の講義内容が明瞭になっただろう。わからない言葉を、わかる言葉に変換して聞けばいいだけなのだから。

けれど、『イデオロギー』を『考え方』とか『主義』といった一つの語釈に置き換えるのは違和感があった。だからその後の講義もそのまま『イデオロギー』として飲み込んで、「どういう文脈で使われているのか」を考えながら話を聞いた。そうしたことで内容を深められたように思う。

残念ながら講義の細かい内容は覚えていないし、レジュメやノートも残っていない。「この講義はよかった!」というヤツは卒業後も残しているから、大して心に響く講義ではなかったのだろう。

最近になって思い出したのは、言葉の『意味』について考える機会が多くなったから。毎日文章を書いている影響でもあると思う。


『イデオロギー』という言葉を説明せよと言われたら、今の自分でも迷うだろう。前述したような辞書的な意味なら記憶をたどってつっかえつっかえ答えられても、「例えばこういうことでね」というように自分の言葉で説明するのは難しい。

けれど、果たしてあの教授だってわかりやすく意味を伝えられただろうか。

繰り返し使われる『イデオロギー』という言葉。その『意味』に対する説明や議論もなく、講義でたびたび登場したから私は引っかかった。

社会学部で1年以上も勉強しておきながらその知識レベルの学生がいることなんて、想定されていなかったのだろう。単純に私は不勉強だったし、そのレベル設定に文句が言いたいわけではない。

けれど、わかったような顔をして聞く周りの学生も、説明をしないままに便利にその言葉を繰り返す教授も、もう少しこのキーワードを深めてもよかった。

少し知識がつくと、わかった気になって引っかかりを感じなくなる

たぶん今の私があの講義を受けたら、繰り返し使われる『イデオロギー』をふんわりしたものとして受け取りながら、引っかかりを感じることなく内容を理解できた(気になっていた)と思う。

そうしたら講義の受け方も違ったはずだ。一つの言葉に引っかからずにほかの内容に頭を使えただろうけど、一つの言葉を意識して「この場合はどういう文脈か」を突き詰めることもなかった。

大学2年の私は、言葉の意味がちんぷんかんぷんだったからこそ、必要に駆られて調べて考えることができた。


では、その専門分野の中にいる教授はどうか。

講義をもつくらいだから教授は誰よりもその分野の知識があって、独自の研究を深めて人に伝えることでお金をもらっている。

だからキーワードである『イデオロギー』という言葉には誰よりも接しているはずなのだけれど、内側にいるからこそ見えていないものがあるのではないか

あの教授にとっては『イデオロギー』はあまりにも普通の概念だ。そこから出発するさまざまな考えを研究しているのだろうけど、出発点をかえりみることは少ないのだろうと想像する。

パン作りにたとえるなら、焼き具合や型、成形の仕方、どんな具材をまぜるか、どんな卵やバターを使うかに気を取られて、生地の大部分を占める小麦粉の成り立ちを忘れてしまうような。

意味を調べてももやもやは残ったのだけど、「イデオロギーってどういう意味ですか?」と声に出しては訊けなかった。バカだと思われるのがこわかったし、講義でふつうに繰り返されるその言葉を聞くうちに、質問する勇気はしゅるしゅるとしぼんでいった。

けれどけっこう大事な、根本的な質問だったんじゃないかと思う。今振り返って思うだけで、当時の私に気づけというのは無理な話だけど。

どんな言葉にも意味があって、その『意味』と『伝えたいこと』が近い言葉を選んで発する。たくさんある言葉のなかから伝えたいことに近いものを選ぶけれど、厳密には両者が完全に一致することはそれほどない。

だから現実的には、選んだ言葉の『意味』に『伝えたいこと』を託すことになる。言葉は発した瞬間に自分のものではなくなって、あとは受けとめる相手の解釈に任せることになる。

思った通りに受け取られずに誤解を生んでしまうこともよくあるし、近しい相手なら理由や文脈も情報として受け止めてくれて、伝えたかったこと以上のことが伝わることもあるだろう。


言葉の『意味』のすり合わせを、ひとつひとつじっくりできる機会や関係性はそれほど多くない。いちいち意味を探っていては疲れるだろうから、そうしたいということでもない。

けれど、たまには『意味』を掘り下げたい。
たとえばあの講義での『イデオロギー』のように、深く考えて話し合うことが必要な言葉って意外とごろごろ転がっていそうな気がするのだ。

わかったような顔でスルーしたらもったいない。

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