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テレビマンになるまで vol.4
何の仕事をするにも、結局は人だ。
1人では、何も生み出せないし誰かと関わらないといけない。
そういう意味で言うと厄介なのは「派閥」「グループ」が存在するということだった。
こっちを立てればあっちが立たず。
こっちに気に入られれば、あっちで嫌われる。
地方の狭いコミュニティーの中では、この攻防が頻繁に行われていた。
それは、ADの中でも発生していて、とにかく人間関係に疲れる日々であった。
休みもない激務を乗り越えても、これが原因で辞めている人、かなりいるんじゃなかろうか。
そんな環境を乗り越え、派遣の規定である3年が迫ってきた。
ここから自然とディレクターになれると思っていたがそうじゃなかった。
派遣の限界である3年間では、基礎を学んだに過ぎず編集、ロケの組み立てすらできない状態であった。
これが制作会社へ就職していたら違っていただろう。
卒業というルールがなく、そのまま先輩が育ててくれ、ディレクターへの道を歩んでいけただろう。
ここでの選択肢は2つ。
1.制作会社に就職し、ADから頑張ってディレクターを目指す
2.フリーディレクターとしてやっていく
この時、26歳。
フリーディレクターになることを決意した。
編集もロケの組み立てもできないくせに。
頼ったのは、大手芸能事務所 ナベプロことワタナベエンターテインメント
AD時代に何度もロケを担当し、九州支部長と知り合っていたので
ディレクターとして事務所に入れてくれないか、とお願いして
半所属という形でディレクターとなることになったのだ。
最初に述べたように人との仕事なので
ツテも何もない状態で仕事があるわけもないわけである。
当然、お金で苦労することとなる…。
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