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「君たちはどう生きるか」を見てきました

映画ネタが続いておりますが、感想文は夏休みの特権。
ワイ的には「良!!!!!」の作品でした。
ジブリは教授の教えから、なるべく見るようにしています。
「ジブリとエヴァは、思春期の発達過程が緻密に描かれているから、勉強するのにいいよ」と言われ、発達心理学の講義で見ておりました。ワイのエヴァデビューは大学の講義の中でしたね。

脱線しました。
ということで、本日も行っています。
心理屋考察厨による徒然考察。
またネタバレボンボンしていくので、嫌な方はUターンです。
あとめっちゃ長文になりそうだから、目がチカチカするって人もUターンです。
嫌なものから適切な距離を取れるのも大人に必須の技やで。


今回テーマとして主に扱っていくのは「喪の作業」です。

喪の作業(Mouning work)とは
フロイトが提唱した概念であり、愛着や依存の対象を喪うことを意味する「対象喪失」によって生じる心理的過程のこと

心理学用語の学習「グリーフケア・ターミナルケア・障害受容」

「喪の作業」には4つの段階があると言われています。

出典:災害グリーフサポートプロジェクト 災害で大切な人をなくされた方を支援するためのウェブサイト 「悲嘆のプロセス」

この段階を行きつ戻りつして、対象喪失という傷痕を受け入れていくことになるのですが、
この作品は眞人の喪の作業だったと、ワイは思います。

まず、対象喪失。
これは「母の死」ですね。
彼を唯一無二の愛で親しみを持って関わっていたのだろうことが冒頭でわかります。
母の姿は出てきませんが、母の死を予感した彼の絶望感の描写から、眞人にとっての母の存在がいかに大きかったかがわかるでしょう。

その後、眞人はもう一度対象喪失をします
新しい母、夏子です。
夏子の登場シーン、ちょっと色っぽくなかったっすか。
ワイはちょっと色気を感じちゃいましたね。
例えば素敵な矢羽のお着物、白い麻の日傘を少し傾けた姿、白いうなじ、はだけて見えてしまった細い足首、そう言った描写に気合が入ってたように感じました。
新しいお母さんだよ、と言われた時、
眞人の中で何が起こったか。
実の母との訣別をしなければならない、新しい母とうまくやらねばならない、新しい母は母と瓜二つで嬉しい、ちょっと綺麗。
ドキドキしたでしょう。何せ眞人は小学生。
そろそろ思春期に入ろうかというお年頃です。

そんなさぁ、綺麗な新しい母と瓜二つの女性がさぁ、出会って早々、眞人の手をむんずと掴んで自分のお腹に「ほら、赤ちゃん」なんて言ったらさぁ、「新しいお母さんは、自分の母ではなく、お腹の中の子のお母さんってこと??? 俺は???」ってならん?


新しい愛着や依存先であったはずの新しい母の喪失がここで行われました。
同時期に2回も行われる対象喪失の重さというのは、ワイでは図ることができません。
それはとんでもないことでしたでしょう。
しかも2度目の対象喪失に関しては、父の存在が関わってきます。
最初眞人は夏子のことを「お父さんが好きな人」と明確に発言しています。
新しい依存先で愛着の対象になったはずの人は父が好きな人で、父が取ってしまっている構造になっています。
これはもう、ワイら心理屋大好きな父殺しをしなくっちゃ!!!!!なわけです。
父殺しに関しては推しの子の方でちょっと解説してますので、どうぞ。

でも、眞人は父殺しが出来ません。
何故なら、父とは会えないからです。
父は非常に忙しい人で、家に帰っても朝くらい。
しかも眞人のことを思って、環境そのものを変えようとしたり、眞人のことを思って学校に対して権威的に振る舞ったりします。

ここで重要なのは「眞人のことを思って」です。
父の善意は非常に権威的な行動となって表出されます。しかも、眞人の意見も聞かずに、父の意見だけで環境という大きな要素が動いていくのです。
自分の意見も聞かない、ただ自分の環境を大きく変えていく善意の父に対して、眞人は何もいえなくなります。
ここで眞人の攻撃性は父ではなく、父の血を受け継いでいる自分に向いてしまった。
だから無口にもなるし、石で頭をかち割ることにもなります。
石で頭をかち割るのは、父への攻撃性が自分に向いたという要素もあるだろうし、
実の母を失い、新しい母も失ったのは婉曲的に父のせいであり、その父の血を受け継いでいる自分も同罪という自罰的な要素もあるだろうし、
新しい母への情景に対する羞恥心の要素もあるだろうし、
新しい学校への馴染めなさへの不安や怒りの要素もあるだろうし、
なんかいろんな要素があるような気がします。

話を戻しましょう。
この石で頭をかち割るこのシーンこそ、眞人の様々な葛藤が自罰的かつ不適切に表出された場面です。
これは悲嘆の段階の2段階目に当たるように思います。
そりゃそうもなるよな、と思うよ、ワイは。

そして眞人の絶望感はまだ終わらない。
新しい母夏子がつわりと自分のせいで倒れちゃって、しかも自分の顔が見たいなんて言いやがるんだ。
心配かけてしまった相手が、自分の顔を撫でて、「こんな傷をつけさしてしまって、亡くなった姉さんに申し訳ない」なんて言うんだ。
母の死が強調され、新しい母は、直人の顔を見て母の面影を見ていて、しかも母に申し訳ないというわけだ。
眞人としてはたまったものではありません。
自罰としてやったその行為が、母を貶めるような行為だったと暗示されてるような発言です。
そりゃ飛び出すわよ。小学生だぞ。
これはきっと第3段階と第2段階を行ったり来たりしてる感じかなと思います。

そして転機が訪れます。

母が遺した吉野源三郎作「君たちはどう生きるか」を読む。
この作品自体、「どのようにその物事を見るか」「それを見た上でどう考えるか」という主体性を問うようなものです。
ボロボロ泣きながら読んでいる眞人は、あの作品に問われたのでしょう。
「君は、今の状況をどう見るか」「その状況を肯定した上でどう考えるか」眞人の指針が決まり始めます。
対象喪失をした時、その人を支えるのは「自分で決定した指針」です。
決定するためにはさまざまな情報やヒントが必要です。
その指針のヒントは、本から得られるものでもいいし、友人や第三者、会ったこともないフォロワーから得られるものでもなんでも良いのです。
眞人はようやく、その指針のヒントと出会えた。
喜ばしいことです。

さて、もう第4段階に入りました。
ですが、この第4段階が1番エネルギーを使うのです。何故ならば、進むしかなく、考えるしかなく、感じるしかないからです。
母が死んでしまったと言う事実を眞人自身が受け入れなければならないからです。


アオサギ男に連れられたり、キリコばあちゃんに世界のことわりを教えてもらったり、老ペリカンの懺悔を聞いたり、インコに捕食されそうになったり、幼い母にご飯を奢ってもらったり、夏子の「大嫌い!」を受け止めたり。
それら全てが母を失ったと言う事実を受け入れるために必要な要素だったと思います。
世界には生き死にがあって、善意と悪意があって、ただ食って寝て、好きと嫌いがあるのだと、そう言った矛盾がこの世界を構築していて、その中に母の死も組み込まれているのだと、眞人なりに考えたのだろうと思います。


こうやって考えられたのはアオサギやキリコ婆さん、ペリカン、ヒミ、インコ、大叔父などの第三者がいろんな意見を彼に伝えたからです。
今回の作品は全編を通して眞人があまり喋りません。
彼は考える必要があるキャラクターだから。

それはワイらもそうよな。
考える必要がある時、ワイらは人から意見を聞いて、口に出す前に頭の中で反芻しますよね。
眞人はそれを行っているのかなと思いました。
眞人の傷を受け入れるのは眞人自身ですが、受け入れるための情報を伝えるのは第三者です。

だからね、ワイ言ってるよな。
なんかあってもなくても、第三者に頼ってねって。
そういうことなの。
情報を伝える第三者こそが、ワイらの心の安定を図るために必要なものなの。

そして、考えたからこそ眞人は「これが悪意の証です」と自分の頭の傷さえも受け入れて、現実世界に帰ってきました。
新しい母「夏子母さん」と共に。

最後眞人は「君たちはどう生きるか」を鞄にしまい、家族に呼ばれて自室を出ていきます。
母の死を受け入れた場所を後にし、家族と共に新しい環境に行く。
これからの人生、どう生きるのか、彼にはなんとなく指針があるんだな、というのを予期させるエンディングでした。
よかった、彼の人生は彼によって紡がれていくんだと、安心できる、そういうエンディング。

すげぇ、久々に3000字書いてしまいました。
喪の作業から見る、「君たちはどう生きるか」。
いかがでしたか。
ワイの考察は以上です。
今回の考察も相変わらずの飛び散り具合でしたが、ワイは非常に満足しています。
これを書くにあたり、さまざまな批評を拝読しました。
みんなで考察するための作品だったんだと思います。
またしてもワイは宮崎駿氏の手のひらの上ですわ。
は〜〜〜〜〜〜〜あ、良き作品に巡り会えました。

ワイはどう生きるか。

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