ノベリスト 第2話
第1章 梨花
その2
南青山の11月の夕暮れは、私が心のうちに抱えている僅かな後ろめたさと、淡い期待に揺れる私の心のうちと似つかわしくないほど穏やかで暖かかった。表参道を歩く人たちの表情も、決して満たされてはいないものの、心なしか穏やかな感じをしていた。
ハロウィンの狂騒も消え、少しづつクリスマスへ向かうこの時期の南青山が私は好きだ。大学が南青山にあるということで、ほとんど庭みたいな感覚でこの街に親しんでいる私は、島根という出身地の田舎へのコンプレックスもなく、普通に都会の人間としてこの街で呼吸している。
「Hey! Do you have a time?」
突然、すれ違った身長180センチくらいの、少し体格がいかつい30歳くらいのブロンドヘアーの白人に英語で声を掛けられた。穏やかな笑顔で悪気がない感じの、どちらかと言えば優男みたいな男性だが、私には先約がある。
「No,thanks!」
私はそう言って彼のいわゆるナンパを断った。そうして早歩きで表参道から骨董通りへ向かった。
彼は私の憧れの作家だし、彼の話も面白いので彼とまた会いたいのだが、それ以上に彼は芥川賞の選考委員でもある。彼に接近して上手く振る舞えば芥川賞の選考には有利になるはずだ。その意図で彼と食事してその後に抱かれることはやぶさかではない。
私は21歳の自分の身体の価値を十分分かっていたし、身体を差し出すことで芥川賞が取れるのならば安いものだと思っている。
骨董通りの瀟洒なビルの二階に、彼との待ち合わせ場所であるボナールというカフェはあった。店に入ると既に彼は窓際の席でコーヒーを飲みながらキンドルで何か読んでいた。
「先日はお世話になりました」
頭を下げながら私がそう言うと、
「こちらこそ」
と、彼も答えた。
「何か頼む?」
彼がそう言うと、
「じゃ、温かいココアでも頂きます」
それから私と彼は清流文学賞の授賞式の時みたいに饒舌に文学について語り合った。
「日本人は終戦後、経済至上主義になってお金だけが豊かさの指標になってしまった。でも今は中国や新興国の台頭で経済的な豊かさが全てという時代ではないし、何らかの新しい価値を日本人が見つけなければならないんだよな」
彼がそう熱く語る。
「そういう時代にこそ、文学の役割ってあるとは思うんですよね。価値を作り出すきっかけになる物語を誰かが書かないといけないと思うのですが…」
私がそう答えると、彼はますます饒舌になった。
「この国の政治家も財界人も、価値を新しく作り出す能力が全くないよな。アメリカのエスタブリッシュメントはどんどん新しい価値観を生み出していて、中国がそれに追随してて、日本が置いていかれている」
「全くそうです。その中で物語がすごく無力になってきていると思うのです。本は読まれなくなって出版不況で、何かよく分からないビジネスのノウハウ本がおじいさんおばあさん向けに本屋に並んでいるだけだし。この国の価値を生み出す物語が文学の世界にもないし…」
「価値を生み出そうとしても既に豊かさが行き渡っていて新しい価値を産む前提になる飢えというか欠落がないという状況で、これって20世紀当初のドイツみたいなものだよな。あれだけ様々な哲学者が幅を利かせていたドイツから哲学がなくなってファシズムが台頭したのだけど、今の日本の状況もそうなのかもしれない」
「太平洋戦争後は坂口安吾や太宰治や川端康成や三島由紀夫がいて、敗戦という日本の欠落をモチベーションに変えていたのに、今の小説家って何をしてるか、よく分からなくて、それが私の『青』という小説を書くきっかけになったし」
私はココアが冷めるのも忘れるくらい饒舌になった。
「これから何か予定ある?」
彼は私にそう訊ねた。
「いえ、特に何も」
「この近くに美味しいビストロがあるけど、よかったら晩御飯でもどう?」
「ありがとうございます。是非ご一緒します」
私たちはボナールを後にすると、そこから歩いて1分くらいの小さな洋服屋の二階のビストロへ向かった。
彼はラインかメールで既にそこを予約していたみたいで、女子大生っぽいアルバイトの店員が手馴れた感じで窓際の席に私たちを案内した。
席数は5~6ほどの、本当に小さなビストロであった。名前はリヨンといった。
早速前菜に生ハムと玉ねぎのカルパッチョらしきものが出てきた。
「睦月先生は、ご結婚されてますよね?」
私はそう訊ねた。
「ああ、でももう妻との関係は冷え切っている。一人息子は成人して独立して、清澄白河でアートギャラリーをやってて、画商と画家を兼ねてる」
「お住まいはこの付近ですか?」
「横須賀の、海が近い場所に一軒家を立てたけど、最近帰ってないな。ずっと南青山にマンションを借りて、仕事場と仮住まいを兼ねてる」
かぼちゃのスープが運ばれてきた。
「そう言えば、ボジョレヌーボーの季節ですよね」
「ワイン、好きなの?」
「あまり詳しくはないけれど…」
「うちの仕事場に、付き合いがある雑誌の編集者から貰ったイタリアの赤ワインがある。ボジョレーよりも多分、美味いと思う」
「お邪魔してもいいですか?」
我ながら、よくもまあいけしゃあしゃあとこんなことを言うものだな、と思いながらも、その言葉に躊躇はなかった。
「ああ、いいよ。どうせ今日は僕も予定はないし」
「ありがとうございます」
少し語尾を上げる言い方も、計算通りだ。
「こんなおじさんの部屋、ワイン以外大したものはないけど…」
「いいえ、こちらこそご馳走になりっぱなしで…」
まあ、分かりやすい女だな、と私は自分のことを客観視してるつもりだが、向こうも多分同じだと思う。
ワインで酔って、眠くなる振りをして、終電がなくなれば、東京の男と女が一つの部屋でやることは決まってるようなものだ。
「真鴨のソテーです」
女子大生らしき店員がメイン料理をテーブルに置く。手慣れている。
「どのあたりに住んでるの?」
睦月が私に訊く。
「学校は青山学院ですが、駒澤大学前に住んでます。青山とか渋谷とか松涛は、家賃が高いから…」
「そうだよね…ってことは実家は田舎なの?」
「島根の、津和野の隣町です。何もない田舎ですね」
「僕は北九州の戸畑出身なんだよ。まあ色々終わってる街だけどね」
「九州は大学の友達と鉄道で回ったことがあって、門司港と博多とハウステンボスに行ったのですが、食べ物が美味しいですよね」
「へぇー、博多じゃ屋台とかも行ったのかな?」
「あ、行ってもよかったけど雨模様で…一蘭の本店のラーメンは食べたけど東京のそれとはやはり違いましたね…何となくだけど…」
食事を摂る行為はある意味官能的である。生きることに繋がる行為は何か生を具現化していて、食べる行為とセックスはある意味繋がっている。
彼の振る舞いは若い男性のそれではなく、やはり落ち着いていて紳士的だった。どこまで彼の本性を出しているのか分からないけれども、この後裸になって全てを晒したら分かるのだろう。
舌の先で転がってる鴨肉の切れ端は、おそらく彼の肉体のメタファーなのかもしれない。私は彼と彼が持つ権威というか、力というものを奪いさり、味わうためにここにいるのかもしれない。
「ごちそうさまでした」
食事を終えると外はもう暗かった。この時期の南青山は軽い躁状態の空気に包まれて何となくせわしない。
彼は灰色のチェスターコートを羽織り、黒いボトムスに品が良さそうな茶色の革靴を履いている。
「ここから歩いて5分くらいのところだよ」
南青山に住むこと自体、私としては今の境遇でもそうそうできることでもない。
東京に出て分かったことは、この街は力とお金がある人間には優しい、ということだった。
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