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まわれまわれメリーゴーラウンド

以下の文章の終盤は、意見が割れそうな部分があるので、あえて有料域で隠しました。
「自分の考えとは違うな」と思ったとしても、文句を言わない方で、かつ、終盤についてお金を払って読んでも良い、と思った方だけアクセスしてみてください。

韓国版、というより原作の「サニー 永遠の仲間たち」の素晴らしさはひとまず置いておいて、(三浦春馬が完璧に格好良かった)「SUNNY 強い気持ち・強い愛」という映画があり、この作品は日本において「女子高生」というブランドが最強だった1990年代という時代(人によって見方は違うかもしれないけれど、少なくともこの映画はそういうスタンスで物語を展開している。良い悪いは別にして)に女子高生だった主人公たちを描いていた。


ちなみに1996年には、同じく「女子高生」を主人公にした「ラブ&ポップ」という小説を村上龍が出していて、この1996年という年は私が大学に入学した年に当たる。


私は残念ながら女子高生ではなかったので、1990年代という時代における主人公ではなかったのかもしれないけれど、「自分の考え方は、社会のマイノリティーなんだろうな」と思いつつも、それは、自分と世代は同じだけれどまるっきり反対側の存在(女子高生)が「主人公」(言い換えれば、本当の意味では数的には違うけれど、「マジョリティー」)だったことから、「自分はマジョリティーになるためにはどうすれば良いか、は分かりながら、あえてマイノリティーを選んでいる状況なのだ」という、ある意味においては「時代感覚をつかんでいる」感があった。

こんなことを書くのは、一度だけ会ったことがある程度の緩いつながりの人のあるツイートが導火線となって、本当は常々感じていたことに改めて向き合っているだけなのだけれど、人生の折り返し地点的な年齢を迎えている今の自分としては、悲しいかな実は今、「時代感覚をつかんでいる」感がなくなった状態で、「自分の考え方はマイノリティーなんだろうな」感を得てしまっている感覚がある。
自分より上の世代のことは、1990年代の自分同様、「上の世代の感覚はこんな感じだろうな」というのをつかんでいる感があるのだけれど、問題は自分より若い世代だ。
おそらく私が1990年代に感じていた「時代感覚をつかんでいる」感をまさに今抱いている20代くらいとその前後の世代のマジョリティーの感覚がつかみきれていない感じがする。
先程、VRChat内での「作る人集会night」というイベントに参加した際、ある種のコンテンツメーカー側に属する参加者の方が「2010年くらいから、主人公が『0からプラス』ではなく、『マイナスから0』に向かうストーリーじゃないと売れなくなっている」みたいなことをおっしゃっていたのだけれど、その感覚は、言われないと「え、今、そんなふうになっているの?」と気づけない部分もある話だった(前身の「作る人雑談会night」に参加した際の模様は下記の通り)。


ただ、この話は、単純に世代間のギャップを悲嘆する話としては終わらない。

歴史学徒だったから、ということもあるのかもしれないけれど、私はここのところ、「歴史は繰り返す」という警句に忠実に、この令和の時代というのもどこかの時代を繰り返しているような感覚を抱いている。

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