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『ひかりごけ』ホモサイド(殺人)とカニバリズム(食人)の狭間で



『ひかりごけ』1992年・日本ヘラルド

監督:熊井啓
脚本:池田太郎、熊井啓
原作:武田泰淳
出演:三国連太郎、奥田瑛二、田中邦衛、杉本哲太、内藤武敏、井川比佐志、笠智衆

★少し内容的にカニバリズムに関する論議の部分もあるので、読んでいただく上でご注意ください。不快で猟奇的な表現は一切ありませんので、その点はご安心ください。

 『帝銀事件死刑囚』『日本列島』などで、実録社会派映画の名手だった熊井啓監督は、『忍ぶ川』から一転、女性映画の名手になって、その後、80年代あたりから社会派の本来の顔で映画を撮り続けました。

 その最も後期の作品が問題作『ひかりごけ』です。
 終戦も近い1944年(昭和19年)に北海道で起こった死体遺棄事件、「ひかりごけ事件」を題材にとった作品です。

 「ひかりごけ事件」は軍の徴用船が遭難難破して、船長の男が生還しますが、その後の捜査で、船長が船員の死体を食して生き延びていたことがわかり、船長が逮捕されて裁かれたという事件です。

 この事件を題材に作家の武田泰淳が、1954年に小説化しました。

 映画に関してはみなさんには是非とも観ていただきたいということで、ここでは少し作品をとり巻く諸問題について、映画も含めて考えてみましょう。

 武田泰淳はこの題材で小説を書くにはあまりにも生々しいということから、前半にエッセイ風の風土記を書き、本編は小説ではなく戯曲として書いています。しかしながら、内容が内容だけに、武田は上演不可能な舞台劇とした上で、レーゼドラマ(読むための戯曲)として執筆しました。
 なるほど、強烈な内容なので、ソフトに演出するためであったのでしょう。

 しかし、この戯曲は小説の発表の翌年には舞台劇として上演され、その後は作曲家の團伊玖磨によってオペラ化もされました。

 そして、最も生々しい表象になる映画という形で1992年に熊井啓監督が世に送り出したのです。

 さて、武田泰淳は、冒頭のエッセイにこの物語と、その後、市川崑監督で映画化される大岡昇平の小説『野火』とを比較しています。
『野火』の主人公はフィリピン戦線で、舞台からはぐれてさまよい、飢餓と戦うという話です。
 武田泰淳は、『野火』の主人公が「人は殺したが、人肉を食べなかった」と言って倫理的に自己弁護をする部分に注目しました。

 人間が人間を食べるという行為が、果たして殺人と比べてどちらが罪深いかということを考えたわけです。

 武田は問います。

 ⚫︎単に人を殺すこと
 ⚫︎死んだ人間を食べること
 ⚫︎人を食べるために殺すが食べないこと
 ⚫︎人を食べるために殺して食べること

 こうした行為のどれが罪深いのかと。
 これはもう、哲学的命題にもなるのですが、武田も答えが出せないと書いています。

 ここで、興味深い事実が浮かび上がってきます。

 私たちは殺人も食人も悪いことだと認識しているのですが、どちらに嫌悪感を感じるかといえば、食人だということになります。

 武田はそこで考えます。
 なぜ、殺人の方が嫌悪感を感じないのかと。

 そこは、われわれが大好きな映画で考えるとわかりやすいのかもしれません。
 映画では当たり前に、殺人はありふれています。犯罪映画から恋愛映画、ホラー映画に戦争映画。テレビではサスペンス劇場で当たり前のように殺人が描かれていて、それはお約束のようなものです。

 リアルな事件でも殺人事件のニュースからウクライナの戦争まで、もう殺人はありふれているのです。
 いやあ、もう日常化していると言ってもいいでしょう。

 ところが、食人の映画となると、映画にするにも難しいし、ましてやテレビドラマなんてもっと難しいでしょう。

 リアルな事件で食人というものがあったら、殺人以上に特異な事件として連日報道もされるでしょうし、ワイドショーの格好のネタともなるでしょう。
 そして、視聴者は殺人以上に強い嫌悪感と恐怖を感じるに違いありません。

 さあ、ここまで来るとみなさんにもお分かりかもしれません。

 そう、食人に人が嫌悪感を感じるのは単に日常化されていないということなのですね。
 では溢れかえる殺人や戦争の方が罪が軽いのでしょうか?

 法的には「殺人罪」より「死体損壊罪」である食人の方が罪が軽いはずです。

 『ひかりごけ』の船長は自分の命を守るために遺体を食べた。そのことがどれほどの倫理上の罪となるでしょうか。

 『野火』の主人公が、「人を殺したが、人肉は食べなかった」とうそぶいているのは、ある意味とてつもなく不気味なことです。

 『ひかりごけ』の背景は太平洋戦争です。大量殺戮が合法に当たり前に行われている世界で「人喰い船長」が裁かれる。

 われわれの殺人に対する無頓着さと、船長のしたことに、何ほどの開きがあるでしょうか。

 映画『ひかりごけ』は船長を裁く裁判劇がクライマックスとなります。

 ここにちょっと書いてみた原作のテーゼとあわせて、映画『ひかりごけ』をご覧になり、みなさんの答えを探してみてください。

 同種の映画作品である市川崑監督の『野火』、そのリメイク作品の塚本晋也監督の同名作品、または、新藤兼人監督の『人間』もあわせてご鑑賞になると、新たな発見があるかもしれません。

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