見出し画像

『独立愚連隊』があぶない?!

 岡本喜八監督の出世作の一つが異色戦争アクション映画『独立愚連隊』である。
 第二次世界大戦中の北支戦線の日本軍部隊が舞台となっている。
 日本軍の大隊のなかにはみ出しものが集められた独立九〇小哨という部隊があり、大隊では独立愚連隊という通称が与えられていた。

 この部隊は大隊防衛のための捨て駒で、無意味に最前線を守備させられている。
 大隊本部の副官とその部下の曹長と軍属の男がワルで、軍の物資をピンハネして私腹を肥やしているのだが、彼らは自分たちの保身のために、独立愚連隊を押し寄せてくる八路軍(中国共産党の軍隊)の盾に利用しようとしている。
 その大隊に風来坊の従軍記者がやってきたことから、物語は推理サスペンスとなっていく。


 つまり、映画『独立愚連隊』は日本軍のなかの悪い奴と、日本軍の規律からはみ出した愚連隊との対峙を描いた一種の反軍映画なのだ。
とはいえ、そういう堅苦しいテーマはよそに、 これは喜劇であり、岡本監督が得意とした男性活劇でもある。
 そして、敗戦国日本では少々作ることが困難な戦争アクション映画である。

 もっとも、岡本喜八監督は、監督自身が愛好している西部劇を日本で作れないだろうかという発想からこの『独立愚連隊』は生まれた。

 人気を博した作品で、矢継ぎ早に姉妹編『独立愚連隊西へ』『どぶ鼠作戦』が撮られ、岡本監督の手から離れて『やま猫作戦』『のら犬作戦』『蟻地獄作戦』が作られた。(その他『独立機関銃隊未だ射撃中』や岡本監督による『血と砂』がありシリーズに数えられるが、これは別な主題による異質なものである。これについてはまたあらためて述べてみたい)

 『独立愚連隊西へ』の主題歌「愚連隊マーチ」は佐藤勝の作曲による行進歌だが、アレンジは騎兵隊マーチ風である。もちろん「独立愚連隊」は日中戦争を舞台にしていても、和製西部劇を目指した作品であることの表れでもある。

 ここで、西部劇として考えた時に、少しばかり気になってくる部分がある。

 西部劇で愚連隊が、いや日本軍が騎兵隊の役割を果たしているのであれば、敵は何かということになる。

 映画の敵はもちろん、八路軍、つまり中国人である。
 西部劇の敵は何かというと、これは過去の古い西部劇では「インデアン」と呼ばれたアメリ カ先住民だった。
 『独立愚連隊』を西部劇だとするならば、日本軍は騎兵隊で、中国人はアメリカ先住民ということになる。

 ご存知の通り、アメリカ西部劇はアメリカ先住民を未開の蛮族のように扱ってスクリーン上で虐殺を繰り返してきた。『独立愚連隊』では愚連隊メンバーは八路軍や馬賊と仲良くしているという設定はあるものの、やはり、第一作目では八路軍皆殺しのシークエンスも出てくる。
 もちろん、それを戦争犯罪的な文脈として描いているわけではなく、ここではアクション描写となる。
 ここに無意識のレイシズムが密かに見出せてしまう。そこが『独立愚連隊』の危うさとなる。

 例えば、独立愚連隊における敵が太平洋戦線における英米軍という発想は成立しただろうかという疑問である。
 西部劇における敵であるアメリカ先住民の役割の部分がアメリカ人、イギリス人、しかも白人であったとしたなら、これは成立しただろうかということだ。

 もちろん、わたしは岡本喜八監督がレイシストであるとなど言いたいわけではないし、わたしにとって岡本喜八監督はもっとも敬愛する日本の映画監督であることにも変わりがない。

 ただ、和製西部劇としての『独立愚連隊』という映画の構造に目を向けたとき、われわれ日本人と日本映画のなかに無意識に備わってしまっている他民族に対する意識が存在しているということなのだ。

 これは一例であり、おそらくはアイヌ民族を描いた映画のなかにもわれわれの内なるレイシズムは善良な微笑みをともないながら、そこにあるのではないか。

 映画をつくる側にも、映画を鑑賞する側にもそれは、日本国内では爆発することのない地雷として、あちらこちらのフィルムのコマに埋め込まれていることも、日本人としての映画を観る目は常に凝視してゆかなくてはならないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?