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【短編小説】 だから、神様

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その9


「安藤さゆりさーん、なかでお待ちくださーい」

と、名前を呼ばれたので、あたしは診察室のドアを開けてすぐの場所、お医者さんの机とはカーテンで仕切られた、いわゆる中待合と呼ばれる空間に入って、丸イスにちょこんと座ったわけです。

冬にしては青空が広がった、小春日和の今日。
胸が痛くなるほどの咳が、もう何日もずっと、ゴホゴホ止まらないので、診察を受けに来たんです。
昨日、そのために一日休みたいというと上司はあからさまに顔を曇らせながら、「まあ、俺だって、鬼じゃないからなあ」と言って許可してくれました。でも、そんなことをいう時点で、仏にも思えないですよね。
そう思いません?

ちょっと不思議なんですけど、なんだか病院にいると症状がやわらぐ気がします。咳もふだんより静まっている感じ。これはやっぱり、安心とか、心の持ちようが関係してるんでしょうか?

そんなわけで、あたしはなんだか意外に、たいらかな心もちでぼんやり薄緑色の壁を見つめてました。すると、カーテン越しにスリッパのパタパタ歩いてくる足音がして、つづいて誰かがイスに座る音がしました。
お医者さんが席に着いたようです。

そしてなにか、非常に薄いフィルム状のものが、ぺろん、と曲がってゆがんだり、ぴん、と伸びて元に戻ったりする時に出す、特徴的な音が聞こえてきました。
ペラン、ペラン。ペラン、ペラン。
ああ、これは、さっき撮った、あたしのレントゲン写真だな、と思いました。

「あれ?」

突然、そんなお医者さんの声が聞こえて、あたしの頭の中はちょっと、少しの間、真っ白になりました。

ふたたび名前を呼ばれてカーテンを開け、デスクの脇の椅子に腰かけます。
すると、目の前にいるお医者さん(阿部サダヲ風)は、うーん、とか、ああーん、とか、なんだか、あたしにかける声を探しているようなのです。

これって、なんだか、やなシチュエーションじゃないですか?

じっと見つめるあたしの視線に耐えられなくなったのか、お医者さんは意を決したかのような面持ちで、あたしの目をまっすぐに見ました。

「あのね」とお医者さん。そして、「これは、ちょっと、よくわからないです」。

あたしこそ、お医者さんが何を言ってるのか、よくわかりませんでした。
「はい?」とこたえて、ゴホン、ゴホン、と咳をして、そして「どういうことでしょうか」と聞きました。

お医者さんはふたたび、ベランッ、という音を立ててレントゲン写真を持ち上げ、今度は、あたしに向かって見せました。

「左の肺に、ものすごく大きな影があります。心臓の上、肺の上部から、下の方に向かって広がっています。肺炎ですと、通常ここまで影は濃くなりません。しかし、この範囲や形状から考えるに、ほかのどのような病気かどうか、まったく判断しかねるのです」

「ほ、ほかのどのような病気って」
ほとんど反射的にあたしは言いました。
「癌ですか?」ゴホ、ゴホ。
「わかりません」とお医者さん。

ちょっと間を置いて「えっ?」と、あたしは言ったように思います。
そして――

「あたしは死にますか?」

その問いかけに、お医者様さんはふたたび、うーん、とか、そういうものかどうかは、とか、いやしかし、など、ぶつ切りの言葉をぶくぶくとあぶくのようにつぶやき、最後にこう言いました。

「とにかく精密検査を受けてもらいます。CTスキャンを使って、もっと詳しく調べます」
「あたしは、大丈夫でしょうか」ゴホッ。
「すいません、わからないんです」


なんということでしょう。


実際の時間は朝の11時くらいだったのですが、あたし的には、一気に夜中が来たように、なにもかもが真っ暗になったように、思えました。

なんというか、咳をするたびにすこしずつ溜まっていった、不安の、暗い心の影が、診察によってこの身体から解き放たれて、診察室をはじめとする周囲の世界を、くろぐろと染めていったような気がしたんです。

2週間後に行う検査の段取りを聞くあいだも、広い廊下をてくてく歩くあいだも、広い待合室に戻って精算を待つあいだも、とにかくこの病院の院内は、ずっと、真っ暗で、底知れぬほど深い、影のなかに沈んでいました。

いまでも確信していますが、あたしの視線の届かない手術室やトイレや休憩室や会議室や院長室なども含めて、建物すべてが、きっと煤(すす)けていたはずです。
冗談抜きで、そう思うんですよ。これはもう、ぜったいです。

そして、真っ暗な心の影を吐き出したあたしの心は、なにかを考えることも、感じることもできず、いきなり空っぽになったようでした。

事務の人から掛けられた「おだいじに~」の言葉も、耳から頭に入った瞬間、からからと音を立てて、体のなかを行き場なく、ずっと転がっていたような気がします。

ひょっとすると、そのせいもあるのかな……。
いえ、そうではないのかも、という気もするんですが。

この世でも最も深い闇に覆われた病院を出るときのことです。

ブーンという音をたてて目の前のガラスの扉が左右に開いたその時、あたしの視界には、良く晴れた冬の日差しが飛び込んできました。

冷たく、乾いた空気のなかで日光が空から降り注いでいます。
それは、門前の車寄せの屋根の斜め上から、あたしに向かって輝いていて、
一瞬、きらきら揺れる光のカーテンを見たように思ったんです。

その光に照らされて、いままで気にも留めなかった、車寄せの地面の、煉瓦色のコンクリートブロックの一つひとつが、あたしの目に、しっかりと入ってきます。

「いま、あたしが立っている地面を支えているものは、こんなかたちをしていたのだ」
と、はじめて気がつきました。
その先の駐車場に目を向けると、大小様々な車の、青、赤、緑、黄色に茶色など、鮮やかな色彩が、くっきりと浮かび上がり、目に入ります。

とても、きれいだと思いました。

駐車場の向こうに立ち並ぶ民家の連なり。
横手に見える道路を流れる車の列。
その向こうに建っている大きなスーパーマーケット。
その上に広がる空の青。
ゆっくりと流れる白い雲。
 
あたしは、目の前の美しい光景を見ながら、大きく息を吸いました。
冷たい空気が肺に流れ込む、その動きを全身で感じました。

あたしはそれを、とても、おいしいと思いました。

なんだか、すべてがいままでよりも、はっきりと見え、そして、いとおしく感じられました。
それは、ずっと、ここにあったのに、あたしは、ずっと、気づかなかったのです。

バス停の脇の自動販売機で買った、コーヒー缶のぬくもりは、かじかんだ指をあたためるだけでなく、あたしの心までほぐしてくれました。
甘く、ほろ苦いその味は、昨日も同じものを飲んだはずなのに、どういうわけか、こんなに美味しいものは今日まで飲んだことがない、と思ってしまうほどのものだったのです。

いま、あたしはバスに乗り、きれいな緑のベルベットの座席に腰をおろして窓の外を見ています。
世の中には、こんなにもいろいろな表情を持つ家や、お店や、広告看板や、
道行く人々がいたんだなと、あらためて感じます。
あたしは、こんな素敵な場所にいたんだなあ、と心から思うのです。

だから、神様。
あたしはたぶん、あなたに文句は言いません。
どんな結果が出ようとも、あたしは受け入れるつもりです。
悲しい結果が出た時には、ほんのすこし泣いてしまうかもしれません。
でも、たぶん、大丈夫です。

こうしている間にもバスは小さなアパートのある場所へと近づいています。
家に着いたらガスストーブをつけて、上に水を入れた赤いケトルを置きます。
ほんのり白い蒸気が吹き上げ、やさしく部屋を満たすなかで、目玉焼きを焼き、お味噌汁を作り、簡単に昼食をすませたら、コーヒーを淹れて、ふだんは見ることのできない、お昼のメロドラマを見てみようと思います。

なんだかとっても、楽しみです。


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