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【短編小説】ちいさくてまるくてあたたかいもの

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その2


日曜の夜のことだった。
アパートの狭いキッチンで、テレビのクイズ番組を聞きながら食器を洗っていると
「ぐぬっ! おぬし……」
という渋い声のあと、バサッと、誰かが刀で斬られる音がした。
六畳の茶の間を振り返るとテレビの前に、ちいさくてまるくてあたたかいもの、がいた。

そいつは、チャンネルを勝手に時代劇のドラマに変えて、テレビのリモコンを握ったまま、不思議そうに画面を眺めていた。
ここは一階なので、たぶん、窓が開いていたのだろう。
僕は食器を片付けると、茶の間へ移動し、そいつが手にしたリモコンを奪い、もとのクイズ番組へ切り替えた。

ちいさくてまるくてあたたかいものは、びっくりして目を見開き、僕を見上げていたけれど、しばらくするとテレビに視線を戻した。
そして番組の回答者が苦渋の面持ちで声を絞り出し
「……わかりません!」
と答えると、何かのスイッチが入ったように、ころころ転がりながら、怒涛の勢いで笑いはじめた。

そこで僕は、その背中をつまんで窓から放り出した。
ちいさくてまるくてあたたかいものは、爆笑しながら放物線を描き、夜のなかへ消えていった。
僕は窓を閉めた。

寝る前に、二三の友人から、こっちにもちいさくてまるくてあたたかいものが出た、と連絡が来た。もう、そんな時期になったのかと思った。

翌日の朝、会社に向かう途中の道では、ちいさくてまるくてあたたかいものを、いくつも見かけた。
電柱の下で寄り添っていたり、植え込みのなかでごそごそしていたり、放置自転車のかごのなかでゆらゆらしていたり。
道行く人々は、あまりそいつらを見ないようにしているようだった。
いつもの街の風景は、確実に変わっていた。

ある日「メンツが足りない」という、かなり正直な理由で飲み会に誘われた。
そこで、僕は不思議と趣味が合う女の子と知りあった。

昔のロックを流すバーで、僕たちはザ・スミスやレディオヘッドを語り、ジョーダン・ピールやクリストファー・ノーランについて語り、カポーティや川上弘美について語り合った。
彼女は地元の商店街やショップの情報を集めたWebサイトの記者だった。
その日のうちに僕たちはつきあうことになった。
商店街の裏、暗い道の角にあるホテルの入り口、そこに、ちいさくてまるくてあたたかいものが、いくつか、ぼんやりと立っていたのを覚えている。
目と目が合ったような気がしたのだ。

夏の浜辺ではケンカをした。彼女の手作りのお弁当を食べて、なにがおいしいかと訊かれ、「ゆでたまご」と答えたからだ。
飲みかけのコーラを片手に「帰る!」と怒る彼女をおいかけて、
僕は浜辺の背後にまっすぐ伸びた海岸道路まで出た。

すると目の前で、道路を渡ろうとしていた、ちいさくてまるくてあたたかいものが、黒いミニバンにはねられた。
彼女も僕も足を止めて、それがゴムボールのように道路わきの松林の奥へ飛んでゆくのを見た。
二人で、ぼうぜんとしていると、ミニバンが止まって、若い男が僕らのほうにやってきた。
そして、いま、自分は人をはねたのかと訊いてきた。
「いや、ちがいますね。ちいさくてまるくてあたたかいもの、です」と僕が答えると
「ああ、なら、よかった。ヒヤッとした」と男は言い、駆け足でバンへ戻っていった。
その背中に彼女はコーラの缶を投げつけた。

僕らはマンションの五階に部屋を借りた。
玄関わきの植え込みには、ちいさくてまるくてあたたかいものもいくつか住んでいるようで、帰宅の際や買い物の行き帰りなどに顔を合わせることもあった。
窓からは港近くの工場地帯が見えた。
複数の工場が集合して山のように巨大なシルエットを形作り、何本もある煙突から白い煙を吐いていた。
そこでなにが作られているかは、僕らのどちらも知らなかった。
「でもさ、あの工場も、きっと誰かの頭のなかにあったものなわけじゃない?」
読書の手を休めて彼女は言った。
「それを取り出して、形にして、動かすなんて。人間って、なんかすごくて……ちょっと怖いな」
そうつづけると、同意を求めるかのように僕を見た。
するとカーテンの背後から、ちいさくてまるくてあたたかいものがとことこと出てきて、うん、うん、とうなずくので、僕はそいつの背をつまんで持ち上げ、玄関からお帰りいただいた。

最初はペンキかと思った。指でさわって、それが血だとわかった。
キッチンのテーブルの横。割れた花瓶のすぐそばで、彼女は目を閉じ、横たわっていた。
口から胸元にかけて黒々とした血が吐き出された跡。
手にした白い花は、半分赤黒くなっていた。
僕がその体を抱えると、彼女はかすかな声で言った。
「おかえりなさい」

レントゲン写真が目の前にズラリと貼られていた。
憂鬱な顔色をした若い医者が言うには、それは進行性の病気で、血中の鉄分が凝固し、著しく偏向して心臓中央部に堆積するのだという。
そして治療法はまだ見つかっていない。
「それでは……」とつぶやいたのは、同席した、彼女の母親だった。
医師はため息をつき、肩を落とし「申し訳ございません」と頭を下げた。

ベッドに横たわる彼女の体は、四時間ごとにひっくり返さなければならなかった。
そうしなければ重く、固くなった血液が、重力の導くままに、体の下半分へと溜まってしまうからだ。
休みの日には、彼女の母親と交代して、僕が一日、ベッドの脇に座っていた。
「あまり、眠ってないんでしょ」と彼女は言った。
「そんなことないよ」と僕。
僕は無言のまま、彼女のパジャマをめくり、肩のあたりをゆっくり、濡れタオルで擦る。
呼吸をするたびに、彼女の肩のなだらかな曲線が浮き沈みを繰り返す。
夕焼けに紅く染まった病院の窓からは、港の工場群が紫の煙を大きく吐き出しているのが見えた。
どこからか、クラクションの音が聞こえてきた。
隣の病室からは、複数の人間が走り回る音が聞こえてきた。
部屋の隅にずっと座っている、ちいさくてまるくてあたたかいものは、物憂い目つきで、僕らを見上げた。
この病室にいる、ちいさくてまるくてあたたかいものは、あまり移動しないようだった。
まったく、笑うこともなかった。
時間が止まったかのように、静かな病室。
ふいに、彼女は「ありがとう」と言った。

その日は雨だった。
火葬場のわきには新興宗教のバンがいて、世界の終わりと救済について語っていた。
激怒した彼女のおばさんが、濡れるのもかまわず、履いていた靴を脱いで投げつけたときには、
僕は夏の浜辺の一件を思い出して、すこし笑った。
火葬場には、彼女の病室にいた、ちいさくてまるくてあたたかいものもいた。
彼女の母親が連れてきたのだ。
焼却炉から運び出された彼女の骨を拾っているときのことだった。
「あの子の、これ、あなたが持っていてくれませんか」

薬物投与の影響で、所々が青や緑に変色した白い骨、その折り重なった破片の奥には、固まって鉄になり、ただれて張り裂けた、彼女の心臓の一部が、そのまま酸化して残っていた。

それは、赤く錆びついた、薔薇の花のように見えた。

“これから会社に行くんだ。
新しい一日を始めなくてはならないんだ。“

よく晴れたその日、僕は自分にそう言い聞かせながら鏡に向かい、不精髭を剃っていた。
剃刀が唇にひっかかり、血の一滴が、ゆっくりと膨らんでゆく。
その血は、鉄の味がした。

朝食のトーストにマーガリンを塗り、冷蔵庫の牛乳をコップに注ぎ、テーブルに置く。
テレビは消したままだ。
食べ終えて、食器を洗い、着替えを終わらせて、マンションを出た。

そこで、僕は見た。

駅へとつづく道に、無数の、ちいさくてまるくてあたたかいものが連なり、
歩き、踊り、奇声を発し、ゲラゲラ笑い、ふらふらし、溢れているのを。

この街にこんなにいたのか、とあきれるほどだった。
出勤途中の自動車の列も、立ち往生だ。どうにもならない。
ちいさくてまるくてあたたかいものの大群は、飛び跳ねたり、踊ったりしているものも含め、とにかく、街の出入り口である幹線道路の方向へと移動していた。

驚いてその光景を眺めていると、靴のつま先をトントンと叩かれた。
足元に視線を落とすと、一体のちいさくてまるくてあたたかいものが僕を見上げて、手を振っていた。
目が合うとすぐに、道路を覆って移動する、ちいさくてまるくてあたたかいものの大集団に入っていった。

あっという間に、どこにいるのかわからなくなった。
だから、あのちいさくてまるくてあたたかいものが、僕たちの部屋によく出入りしていたものなのか、彼女の病室にいたものなのか、僕にはわからない。
もしかすると、そのどちらでもないのかもしれない。

僕にわかっていたのは
――とにかく、なにかが終わってしまったんだ――ということだけだった。

僕は上着のポケットに手を入れ、ハンカチに包んだ、彼女の薔薇を握りしめていた。

そして、しばらく、道路を移動するちいさくてまるくてあたたかいものを
眺めてから、僕は、歩きはじめた。


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