『海岸通り』坂崎かおるー読書メモ#15

『海岸通り』坂崎かおる 文學界2024年2月号
純文学度:75
キャラ:4
テーマ:5
コンセプト:1
展開:3
文体:2

長良がこの小説を読んで真っ先に感じた、というか語りたくなったのは「見下し」についてなんだよね。
他にも注目すべきところはいっぱいあるんだろうけど、まあ、思っちゃったことは仕方ないので、見下しについて考えたことを書こう。
まず前提として、長良は見下すっていう行為については善も悪もないと思ってて、何なら対等な関係って尊敬と見下しのバランスが取れてる状態であると考えてます。
ここから尊敬が取れると差別とかイジメの問題になるんだろうな、ってのは今思い付いた。
この小説において、その辺のテーマを感じるのは、第1に主人公である久住から、ウガンダ出身のマリアに向けられる目線でしょう。
久住は結構マリアに対して自然と毒づくというか、見下しの感情を地の文(ここでは久住の心の声と仮定します)で隠さないんですね。
これは、よく言えば素直、悪く言えば空気の読めないという主人公の性格を表しているといえます。
でまあ、久住は見下しの感情を隠さない一方で、自分の持っていないマリアの良いところにはめちゃめちゃ好意を抱いています。
なんで、久住は基本的にはマリアの事がめちゃくちゃ好きなんだと思います。
ただ、自分の正直すぎる性格のせいで、多くの人なら気付かないふりができる、見下しの感情も素直に発露させちゃっているというだけで。
この久住なりの愛情表現は、サトウさんにも向けられてますね。

サトウさんと言えば、この小説全体を貫く「ニセモノ」というモチーフの一番近いところにいる人物ですね。
ニセモノのバス停でニセモノの義理の娘と会話する。
この小説読んでて、ニセモノにはニセモノの良さがあるなと思って、それは、ニセモノの方がより理想に近いってこと。
やっぱり、本物とか現実って思い通りにいかない、ままならなさみたいな性質を持ってるんですけど、ニセモノはニセモノだからより本物っぽく振る舞えるというか、理想通りの動き、働きをすることができる。
最後、久住がみんなニセモノのマリアしか見ていないって言ったのはそういうことで、「ウガンダ出身の女性」という字面で私たちが思い浮かべる像だとか、この字面のフィルターを通して接するマリアとかは、私たちに都合よく作られたニセモノでしかないというわけですね。
普段ニセモノやってる久住だからこそ、その辺敏感なんかもね。
ここでいうニセモノは、≒偏見と言えるかもしれない。
どっちかっていうと、偏見がニセモノを作るってイメージか。
見下しと同様、長良は偏見=即悪だとは思わないし、さっきニセモノには良いところもあるっていうのは、そのまま偏見にも良いところがあるって言い換えられる。
ただ、悪い側面が出ると差別に繋がるし、そこが悪目立ちしやすいという意味では、偏見も見下しも取り扱い注意になる気持ちはよくわかる。

ここまで来ると、この小説のテーマは差別といっても良い気がしてきたな。
もちろん、それなりの形にするには、もっとこの小説を読み込まないといけないけど、直感的には、テーマ差別と言っても問題なさそうな感はしてる。
メモだから別に文章がまとまってる必要はないんだけど、今回は特にとっちらかってる気がするな...
むしろ、毎回このぐらいとっ散らかす方がいいのかもしれない。
見栄えは別にして、今まで書いてきた読書メモの中では一番思考が進んだ気がした回でした。

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