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面接前の川沿いブルーマウンテン

筆者が体験した就活でのできごとをおはなしします。10年ほど経った今も、忘れられない面接の朝のできごとです。

就活タグでいらしてくれた方々、日々おつかれさまです。就活体験記とタグ付けしたものの、このおはなしには、就活に有益な情報はございません。せめて、みなさまの息抜きになれば幸いです。

その日は、朝8時30分から本社面接でした。郊外に住む私は、6時に家を出て、7時30分に本社への最寄り駅に到着。駅を出ると、既に熱すぎる日差しが黒いスーツに降り注ぎます。プリントアウトした地図には(ナビとかないよ、10年以上前の話ですから)、まず商店街を抜けるよう指示されていました。

1時間近く電車に揺られ、暑さも相まって持っていた飲み物が早々に底をつき、喉が渇いていたけれど、喫茶店には寄れません。面接会場である本社の場所を早く確認しなければなりませんでした。黙々と歩いていると、道中、大きな荷物を背負い、楽しそうに駅へ向かう学生の集団とすれ違いました。

夏休み真っ只中だもんね…あー旅行、行きたいな~。て、面接前にこんなぼんやりしていていいのかな?まあ、こう暑いとなー。面接も、もう何社目かわからない。今はもう、ただただ、スケジュールに組み込まれたミッションをこなすのみ。もしかして、これが、社会人の精神状態なのかなー…いや、仕事ならお給金がいただけるだけ報われる。我々、就活の民には出費しかない。「合格」の2文字が出るまでひたすら、出るかわからないおみくじを引き続けるしかないのだ。もう何枚「残念ながら、この度は弊社でごにょごにょごにょ」の返事をいただいたか覚えていない。いや、本当は覚えているけど、そんな数字、今は忘れたい

本社は最寄駅から徒歩10分です。もう半分ほど来た頃でしょうか。いつの間にか、商店街を通り抜けたようです。ジャケットを腕にかけ、小さな交差点を渡ります。向かいの八百屋さんの店頭には、今にも弾けそうな大きなスイカが並んでいます。スイカが好きではないのに、こう暑い中で見ると、キンキンに冷えたまんまるの大玉に、ストローをさして果汁を飲んでみたくなります。

横断歩道を渡りきると、泣く子も黙る御社が現れました。大きな三叉路の一角にある10階建ての建物。そこから突如広がるビル郡に圧倒されます。どのオフィスビルも、なんと誇らしげに建っていることでしょう。何百というガラス窓に、朝日が反射して眩しいこと。ひとまず、目的地にたどり着けたことに安堵していると、体が再び喉の乾きを訴えてきました。

どこかで、アイスコーヒーを飲んで面接時間まで待とう

本社の正面玄関から右手には、広い道路が通っています。こっちを行けば、何かしらのお店があるだろう。そう思うのが当然です。しかし、私の足は、正面玄関に向かって左手に続く小道へ向いていました。まるで、ついさっきまでお祭が開かれていたのかと思わせる楽しい空気の漂う道です。飾り立てられているわけではないのに、不思議です。道の両脇に立てられた道標を見ると、神社の参道と書かれていました。

参道には、食事処、手土産と書かれた看板も見えますし、何屋かわからない店もあります。しかし、どの店もまだシャッターは降りています。一番手前にある小さな店は、駅のキオスクほどの大きさです。ここだけ、真新しくツルツルテカテカの看板を引っ提げています。カタカナで書かれた知らない単語。インドカレー屋さんです。しかももう開店しています。

さすがに朝からカレーは…景気づけになるか?いやでも、面接の前にカレーって。開口一番、「あ、この人、朝からインドカレー食べてきたんだ」となるに違いない。私の名前よりも先に、朝カレーを食べてきた人、それが第一印象となる。それが良いか悪いかは人によるだろうけど。スパイスの香りを焚き染めて挑むのは、何を喋っても「カレーを食べてきたヤツ」という印象が先行してしまいそうな気がする。それとも、朝からインドカレーを食べてくる度量を買われるかもしれない。面接官の方にカレー大好きな人がいるかもしれない…

ふと、我に返り、自分に都合のいい展開を期待して、就活や面接に挑むのは、健康的ではないだろうから、もう少し、この参道を奥まで歩いてみようと思いました。

すると、インドカレー屋さんの向かいでシャッターが開きました。昔ながらの町のクリーニング屋さん、そう思しき店構えですが、ガラスの向こうは、ほとんど毛布で覆われています。毛布の隙間からは、たくさんの家具の背中が見え、明らかに物置であることがわかります。

シャッターが全開になると、ガラス扉の向こうから出てきたのは、総白髪の男性。見た感じだと60~70歳代で、背が高く、恰幅がいい。そして、全身上下ド紫色のスウェット姿。真紫ではなく、ド紫です。

つっかけサンダルをジャッジャッといわせながら、男性は店先にプラスチックのカラフルな椅子を並べだしました。椅子は、田舎の海の家とかにある耐荷重設定が低そうなアレ。大人が座ると、ぐにゃんと揺れるあの椅子です。ライムグリーンとショッキングピンクのプラスチックチェアと、全身ド紫色のおじさん。私はその光景に目が釘付けになりました。

店先に出されたカラフルなプラスチックチェアの後ろには、誰のおばあちゃんちにも必ずある、大きな花柄の茶色い毛布がガラスにビタッと押しつけられています。隙間から覗くのは、年季の入ったタンスや、電話台といった家具たち。

こうした物置は、私の実家がある田舎町でなら、見かけても気にはしないのですが、ここは西東京を代表するお洒落街の一角。そんな場所にあって、浮きすぎです。インドカレーやさんも、ツルツルテカテカの看板は、レトロポップで、CD ジャケットに使われそうなハイセンスです。ここへ来るまでに通ってきた商店街の中にも、かっこいいバーや、ユーズドファッションの穴場と呼べそうなお店がありました。そんな街中に、突如として現れたスケスケ物置と、鮮やかなプラスチックチェアの並びは、異色という他ありません。存在が街にミスマッチ。

横目でチラチラ見ていると、椅子を並べ終わった男性が店の中へ消えて行きました。その背中を目で追うと、店内の様子が窺えました。内装を見て、気づいた瞬間、思い切り眉をひそめました。

うっそ、ここ喫茶店?

入口を入ってすぐに白いカウンターと、バーチェアが3脚、その向こう側には、凝った柄のコーヒーカップが、壁に取りつけられた棚に整列しています。大事そうに飾られているカップを見て、私は我が目を疑いました。器に詳しいわけではない私でも、並んでいるカップがどれも高価なものであることがわかったからです。

ド紫のスウェットと、エルメスのシュヴァルドリアン。おばあちゃんちの毛布と、プラ椅子に、アンティークのミントン。またも起こるミスマッチ。

左右から繰り出されるミスマッチのジャブが、私のツボにクリティカルヒットしました。外観からは想像つかない内面が垣間見える。こんな時、好奇心が沸かないわけがありません。それに私は、こういうギャップにめちゃくちゃ弱いのです。

ひょっとすると、おばあちゃんちの毛布の隙間から見える、あの乱雑に置かれた家具たちは、もしかしてアンティークなのかもしれない

気になっては、確かめずにいられません。このお店に入らない手はない。ワクワクが込み上げてきて、口許が緩みます。

いや。でも、もう少し参道の奥まで歩こうと思ったんだ。う~ん、時間はまだあるし、まだしばらく歩いてみよう。それでも気になるなら、立ち寄ろう

好奇心を抑えて歩き出すと、背中越しに、ステレオから流れる音楽が聴こえてきました。大ボリュームのイントロにびっくりして振り向くと、私の頭の中は、急にサンセット。紫とオレンジの入り交ざった空、藍色に染まっていく東南アジアの街並み。ケーキの下の銀紙みたいに輝き揺れる川面。その横には、サーモンピンクの色をした小さなホテル。そして、サングラスをかけた男性がマイクに口付ける…

誰も知らない夜明けが明けた時~♪

聴こえてきたのは、井上陽水が歌う「リバーサイドホテル」でした。私がこよなく愛する曲。それを、朝8時を前に、人気のない御参道の路上で聴くとは。それも、これから面接に挑む御社を見上げるこの場所で。なんとまあ、怖いくらいにミスマッチ。

♪若い二人は夢中になれるから~
狭いシートに隠れて旅に出る~♪

ピッカピカに輝く真夏の日差しを浴びた、無造作な外観の喫茶店が、途端に、異国情緒溢れるリゾート街のはずれにある、地元民に愛され続ける老舗の喫茶店に見えてきました。店の前では、全身ド紫色の男性が、動く度に彼と一緒に揺れるショッキングピンクの椅子に腰かけ、俯いて紙たばこを吸っています。

「すみません。コーヒー、いただけますか?」

私が尋ねると、男性は短くなったたばこの灰を地面に落とし、長く煙を吐きました。

「来てくれると思ったよ」

そう言うと、男性は私を見上げて笑います。私は無性にうれしくなって、前のめりに声を出して笑ってしまいました。

♪ホテルはリバーサーイド
川沿いリバーサイド
食事もリバーサイド
んもぉっおっほっ ルィバアサァイッ♪
(歌詞は「Ohーリバーサイド」ですが、私にはこう聞こえます)

「一番おいしいコーヒーを出してあげよう」

男性が、火のついたままのたばこを持って店の中へ入っていったので、私はその後を追い、店の敷居をまたいでカウンターチェアに座りました。荷物を置く場所がないので、ツルツルのリクルートバッグは膝の上、メニューがあるわけでもなく、お冷も出てきません。私はただ、男性が言っていた「一番おいしいコーヒー」が出てくるのを待つしかありません。

開け放たれたままのガラス扉から、歌い続ける井上陽水が路上に響き渡ります。遮られることなく降り注ぐ日射しが、汗ばんだ背中に当たってジリジリ熱くなっていきます。店主は、私の目の前で、静かにハンドドリップの準備をしています。

壁に並ぶコーヒーカップを見上げると、やはり有名なブランドのものに違いありませんでした。かなり古いものから、限定品ではないかと思われるデザインまであります。そうなると、やはり、物置の家具もアンティークなのか気になります。

店内には、カウンター以外に席はなく、そのすぐ横に家具が散乱していました。あまりじろじろ見ると失礼だとは思いながらも、好奇心が抑えられず、大きな洋箪笥や、カウチソファーを凝視しました。

すると、どこから見てもリクルート姿の私に、店主がどこの面接に行くのかと尋ねてきました。返事をしながら、しつこく家具の品定めを続けますが、店主の話を聞いて、それどころではなくなりました。

「●●社の面接なの?それなら、そこの社長や幹部はこの店の常連だよ」
「えー!」
「いっつもコーヒーを飲みに来るよ。それで、よく置いていくんだよ。ホラ」

ホラと言われて指された方を見ると、御社で購入したと一目瞭然の商品が、カウンター横に置かれていました。それから店主は、社長や幹部の方々を、「~くん」呼びして、いろんなエピソードを聞かせてくれました。

「はい、お待たせ」

待ちに待ったコーヒーは、異国情緒を感じさせるカップとソーサーに入って出てきました。「リバーサイドホテル」につられてやってきた私の気分にぴったりな器です。カップの縁はゴールド、豹と、南国にありそうな高い木が共に描かれています。私が持っているマグカップよりも、はるかに薄い飲み口からコーヒーをすすると、スッキリした味わいの後から、独特の酸味を感じました。

「頑張れるように、ブルマン※にしたからね」
「え!」
「こんな店で、しかもこうした器で出てくると、驚くでしょう?」
「え?ええ。わ~、ブルマン…」
※コーヒーは飲まないし、よく知らないというアナタが、今思い出しているそれは、ジョージアの缶コーヒー、エメマンことエメラルドマウンテンではないでしょうか。ブルマンは、ブルーマウンテンという高級豆の略称で、飲む場所、淹れる人、珈琲豆の品質等によっては、お札を何枚か出さないと飲めない代物です。

得意げな店主の表情を前に、私は、驚きを通り越して、ちょっぴり引いていました。彼は、私が再びコーヒーを飲むのを待っています。口の中に広がる酸味に、舌乳頭がしびれているみたいです。見つめられているものだから、香りを楽しむなんて余裕もなく、急いでカップに口をつけました。

「お口に合ったかな?」
「どお、どうなんでしょう…初めて飲みました。酸味が強い…のかな?」
「うんうん」

頷いてはいても、私の感想なんて気に留めていない様子で、店主は棚に並ぶ器を指して語りはじめました。一方で、私は、内心気が気ではありません。まさかこの喫茶店、経営スタイルも異国情緒が強いのでは?そんな気持ちを隠しながら、次々と手渡されるビンテージのカップを眺めていると、外で自転車が勢いよく停車した音が響きました。

「っちゃーっす」
「ちゃーっす…?」
「あっちーなあ。これからコレ、売りにいくんだよ」

私の席からひとつ空いたバーチェアに、飛び乗るように腰かけたおにーさん。赤いジャージにプリントTシャツ、短く刈った金髪に、横長のサングラスを着けています。私は勝手に、彼は、歌舞伎町からはるばる自転車でやってきたのだろう、と決めつけました。

彼は、席についてようやく、私の存在に気がついてくれたようです。こちらをちらりと確認し、ひょこっと会釈してくれたので、私もひょっこり頭を下げてお返しします。挨拶をしてくれる人に怖い人はいません。一安心して、酸っぱいコーヒーをもう一口すすりました。

彼の足元には、英語で書かれた学術書が何冊も詰められたプラスチックの洗濯籠がありました。おにーさんが、これから売りに行くと言ったのは、この学術書のことだったようです。本の内容は、どれも数学に関するものだったと思います。

「売るだなんて、本屋さんの前で、そんなこと言っちゃっうんだ。困っちゃうね?」

そう言って、私に話を振ってきた店主。そう、この日の私の就活先は書店です。

「あ、でも私が目指すところは、本を売る事業ではないので。私もよく古本買いますし。アハハ」

何も考えずに返答してしまい、ハッとしました。

いけない、浅はかだっただろうか。社長の耳に入ってしまうかも。あ、私…これから面接だ。ああ、そして、ブルマン。幾ら取られるのだろう?なんかもう、なんでもいいや。やらいでか

ド紫おじさんによると、おにーさんは、世界的に有名な、かの合衆国の名門大学のご出身。春先に帰国してから、ITサービス系の会社を起業するため、荷物の整理もかねて、金になるものは何でも売り捌いている最中なのだそう。地元でそこそこの私立大学に入り、学問よりも、夜遊びの法則ばかりを身につけ、流れに任せて就活している私にとっては、てんで規格外な話です。

なんだろう、この店は…大型書店の社長や、幹部だけでなく、未来の社長も通う喫茶店なのか。そんなお客さんばかり集まるとは…まさか、ひょっとすると、このお店はパワースポットなのでは?そういえばここ、御参道だし

勝手に、根拠のないパワースポット説に目覚めた私に、おにーさんが、なぜ書店相手に就活しているのか尋ねてきました。

その質問の冒頭には、「なぜ、近年の売上低迷で、将来性を危ぶまれる業界なのに」が、かっこ書きされています。それまで、他にも何人かから同じ質問を受けたことがありますが、漏れなくそうでした。そして皆さん、決まって似たアドバイスをしてくれます。「もっと先のある業界を選べば?」と。

私は、本のことが「物」として好きで、物心ついた頃から、本に携わる仕事に就くと決めていたのです。本をつくる側でも、売る側でも、修繕でも、配送でも。人生のうち、長い時間を過ごすことになる業務時間を、書物に囲まれていたいのです。

面接において、同じ質問を受けた時、本が好きだから、などという私みたいな悠長な答えは、最も不正解に近いでしょう。しかし、出版業界の行く末に興味のない人には、この答えで充分だろうとたかをくくっていました。

すると、そのうち、紙の本は消えて、電子だけになるだろうと、おにーさんが言いました。私は、クリスチャン・ディオールのカップに描かれた豹を撫でながら答えました。

「うーん…書籍が全て電子化してしまうことに関して、私はあり得ないと言いきります。しかし、世の中には絶対ということはありませんので、もし万が一、紙の本が一切発行されず、保管もされなくなるという世界がくるなら、そうなることがあれば、そうですね…私みたいな本好きが、書籍という人類の知的文明を、どうにかして残さなくてはならないですね。」

言った手前、自分にびっくりしました。電子化の流れに関する質問の答えは、他に用意がありましたから。その答えとは、論文や、業界誌の記事なんかで、読んだことのある文言だったと思いますが。

私は、こんなことを考えていたのか。本が好き。どのくらい好き?なにがなんでも、人類の歴史から消えることのないよう、残したい。そのくらい好きだということに、今、はじめて気づかされました。

「ところで、時間は大丈夫? 」

店主に言われて、時計を見ると8時20分になろうとしていました。面接予定時間まであと10分。やっちまいました。受験者として詰んでいます。魂が半分抜ける音がしました。

「おお会計お願いしますっ!」
「そうだね。うんうん、ブルマンだったね。ちょっと待って」

そうですよ、ブルマンですよ…

財布の中を確認すると、幸い多めにお札が入っていました。

「では、5000円」
「うっ…さすがブルマン」
「冗談だよ。ワンコイン、500円ね」
「え?」
「あとは出世払いで」
「でも、もし入社できても、ここ(本社)に来ることはそうないし…」
「じゃあ、そのおにーさんが、本を売ってきたお金でね」
「オウ、どーぞ」
「面接、がんばって」
「ありがとうございます…がんばります!」

二人に笑顔で見送られ、私はちょっと感激して店を出ました。走ったところで、案の定、私が一番最後に到着した受験者でした。そして、免れない五十音順というカルマの中にいて、あ行の姓を持つ私は、一番手の受験者でもありました。

面接官の方が、開口一番に「朝早いのに、来るの大変だったでしょう?」と尋ねてきたので、早い時間に来たおかげで、朝からあの店でおいしいコーヒーを飲むことができたことを伝えました。すると、質問してきた面接官は、その喫茶店を知っていたようで、とてもウケました。他の面接官の方々が、控えめに微笑む中、豪快に笑うこの方は、もしかしなくても幹部なのでしょう。

幹部さんに、「面白いおじさんがいたでしょう?」と聞かれ、面接がうまくいくよう、サービスしていただいたことを話しました。おかげで、つかみバッチリ。そして、最も重要な質問をされた時、私は思わず満面の笑みで答えることができました。なにせ、そこでは、喫茶店での、おにーさんとの会話が再現されたのですから。

笑顔で試験会場を去り、帰りにまたあの喫茶店を覗くと、まだ午前10時前なのに、既にシャッターが閉まっていました。気まぐれに開いているお店なのでしょうか。結局、店主にお礼ができないまま、私は秋から、その会社の支店で働きはじめました。

そもそも、私が飲んだあれは、ブルマンだったのか知りません。ブルマンが入っていたディオールのカサブランカも、本物だったのかわかりません。それでも、私は確実に、あの2人と、あのコーヒーに背中を押されて面接に挑むことができたのです。


***

私が配属された支店には、月に何度か、本社から営業さんがやってきます。彼は毎朝、本社に出勤しているので、あの喫茶店の話をしました。ド紫のスウェットを着たおじさんが、ハイブランドのカップとソーサーで、ブルマンを出してくれるお店だと言うだけで、営業さんは食いついてくれました。

彼は、本社勤務になって2年経つそうですが、いつも外回りをしているので本社近辺についてあまり知らないのだそうです。不覚だったのは、私があの喫茶店の店名を憶えていないことでした。店主の印象が強すぎて、店名が今でも思い出せません。私が営業さんに、もし店主に会えたら、面接に受かった旨と、お礼を伝えてほしいとお願いすると、彼は、ぜひ今度行ってみると約束してくれました。

「こないだ教えてもらった喫茶店、行ってみましたよ」
「営業さん、本当に行ってくれたんですね。マスター、お元気でしたか?」
「それが、やってないんですよ。曜日や時間を変えても、なかなか開いていなくて。だから、お礼も伝えられてないです」
「あらら。それは残念…私、来月に本社で研修を受けるから、直接お礼します。ありがとうございます」
「ちょくちょく覗いてみますよ。その強烈なマスターに会うと、運気上がりそうだし」

とは話したものの、その後、営業さんは結局、店主に会えることなく異動となり、私は本社研修がある度に店を覗きましたが、喫茶店のシャッターは、いつも閉じたままでした。

きっと本当に、気まぐれにしか開いていないお店なのでしょう。たった一度寄ったきりだったあの喫茶店を、今でも思い出し、細部まで覚えているのは、あの曲のおかげだと思います。

井上陽水の「リバーサイドホテル」。この曲が、あんなにも似つかわしくないシチュエーションで流れてきた、そこからのミスマッチのラッシュが、ひとつひとつ、私の中に色濃く刻まれてしまったのです。あの日から、この曲を聴いて思い浮かぶ情景は、サンセットではなくなりました。

ナイトフライトを経て、異国の地に降り立ち、空港を出るところから始まる。目が開けられないくらい眩しい日差しと、それを照り返すアスファルトの熱。乗り心地の良くないバスに揺られて街中へ繰り出せば、プラスチックのカラフルなビーチチェアと、日常の内側にいては、決して出くわさない人々。背中を伝う汗の感触と、500円のブルマンの香り。

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