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人生最後に食べたいものは死ぬまで分からない

この前初めてマクドの倍マックを試したんです。ダブルチーズバーガーの倍マック、つまりはパティが4枚、チーズが2枚のクワトロチーズバーガーを食べた。

美味しいとか美味しくないとかじゃなくて、褒め言葉として純粋に頭の悪いそれだった。美味かったよ、美味かった。多分これとハイボールとかコークハイとかやってたら意識が飛んでたと思う。

先週の5日間、口にするもの全てを記録して提出する実験に協力してたんです。今日それの最後のヒヤリングの面談をやってきた。

どんな食べ物を食べてきたか、何を思って食べたか、そんなことを聞かれながら考えると、多分自分にとって「食べる」がそこそこ大きいものであることを実感させられることがあった。

1人何万のコースを食べても、360円の大盛りのうどんを食べても、最終的に消化されると等しく排出されるわけで、それでも一瞬の美味しさに心が励まされてきたことは確かだ。

昔食べた仕事終わりの3時のラーメン、夜遊び倒して6時の寒空で食べたラーメン、昔のライブ終わりの名古屋駅で急いで食べた立ち食いのきしめん、一口目どころか見た目から美味かった肉刺し、思い返せば山ほど美味かった瞬間の食べ物はある。

それでもその記憶は常に保たれるわけでもなく、性懲りも無く美味しいものを求めて食べ続けている自分がいる。

人生最後に食べたいものは何か?そんなことを考えるとキリがない。当たり前に適当に食べて、それで寝て逝けるなら幸せだろう。

何を食べて死にたいだろうか。アメリカの死刑囚に死刑が執行される前の日には、最後に食べたいものを聞かれるらしい。今は違うらしいけど。

それで死刑囚が答えるものの3-4割がマクドの何からしい。まぁ確かにそれはそれでいい気はする。でも自分が今それを出されて「明日お前死ぬけど、大丈夫そ?」とか言われたら、すっごい複雑な顔をしてしまう気がする。

確かにマクドのくれる多幸感はすごい。それはもうすごい。でも、それで人生ラストにしたいかと考えると違う。多分食べ終わった後に(明日は何を食べようか)と考えてしまうだろう。

じゃあ人生最後に食べるものは何がいいか?となると、それはそれで難しい。

だからこそ、毎日の最後のご飯を大事にしないといけないのだろう。

玉村豊男という人が好きだ。食についてのエッセイストで、確か山梨にワイナリー付きの施設を運営していたはず。

その人が書いているエッセイが「毎日が最後の晩餐」というそれで、毎日の最後の晩餐、つまりは晩ごはんをこだわらないと、最後の晩餐としての心残りができてしまうというそれがある。

美しいよね、美しい。いつ死んでもいい、じゃなくて、いつ死ぬかわからないからその日ごとに最高の食事をしたいよね。みたいな割り切った美しさがある。

そうありたい。そうありたいと常々思う。

そんな今日の晩ご飯は同期と食べた居酒屋の食事だった。天つゆと大根おろしだけで酒を飲むのだって幸せだ。幸せに違いない。それを幸せと言わずして何とすればいい。

今日も幸せだった。それに尽きる。明日のご飯を食べるために、健康でありたいと思う。そんなことを思った今日でした。

時間が危ない。気づかなければ1000日更新が途絶えるところだった。

ひとまず今日はこの辺で。また明日。

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