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「自由からの逃走」を読むと、自由がいかに辛いものかがわかる

皆が自由になりたがっているのに、一度自由を手に入れるとそれが重荷となり、せっかく手に入れた自由を手放してしまう。本書ではなぜ昔(1920年代〜1940年代)のドイツ国民は自由を捨ててナチスに従ってしまったのか、という思考の過程が描かれている。

ナチス政権下のドイツ国民に限らず、せっかく手に入れた自由を簡単に手放してしまう、ということは日常茶飯事で起きている。そして自分自身を振り返ってみても、しばしば思考停止に陥って自由に考えること・行動することを放棄している。

昔、営業部門にいた時、営業目標達成に向けプレッシャーのかかる日々が辛く、早く異動したいと思った時もあった。その後、ある程度裁量が与えられた企画関連部署に異動した際、上司から「自分の好きにしていい」と言われた。その時、感じたのは自由を手に入れた喜びよりも重圧だった。恥ずかしながら、あれほど得たかった自由がこんなに重いものだと感じ、逆に目先の営業目標さえ、何も考えずにとにかく追っていればよかった営業部門が妙に懐かしくなってしまったことがあった。

また、第三者的な立場、つまり観客席側の立場から「この会社ももっとこうすればいいのに」と言っている分には何か大きくて高尚なことを言っている気分になるが、いざ自分にそれが行える権限を持った瞬間、途端に保守的になって「やっぱ現状維持ですよね」と考えが変わってしまうことも恥ずかしながらあった。言うまでもなく、あの時の自分は自由を放棄していた。

これは自分だけではないようだ。昔働いていた会社の役員の方と飲んだ際、その方がこんな風にぼやいていた。「マネジメントとは不思議なもので、権限を移譲すると皆、使いたがらなくなる。営業目標を本部が設定すると、営業店は『こんな押し付けの目標は高すぎて現実的じゃない。本部は何もわかっていない』と文句を言う。そこで次に『じゃあ、営業店が一番現場をわかっているはずだから、営業店が自分自身で目標を立ててください』と言うと、『本部で設定すべき』という」

夜の飲み会のように、発言に対して責任も何も無い場所で会社に文句を言ったり、こうしたらいいのと流暢に発言している人が「じゃあお前らの好きにやっていいぞ。何やりたい」と言われて自由を与えられると途端にシーンとなる場面はこれまでよく見てきた。

そこで彼・彼女・彼らは、今までいかに束縛された身は何と楽だったのか、自分自身の力で選択する労力もなく、ただ従っていればいいという立場は何と楽だったのだろう、と思い知らされる。同時に自由というものが急に苦痛になる。自分の言葉に責任を持たなければならなくなり、逆にその言葉や行動に縛られ自由がなくなったかのように思われ、ただ無意識に会社に従属して何も考えず上司や会社の意向を汲んでいたほうがどんなに気楽だったか、と思わされる。

そんな日常を思い返した本だった。自由が束縛か、特にどちらが良いか、という点には言及しないが、それも自分がどう生きたいか次第だろう。そして、この「生きたい」というこのWantを考えるのもまた苦痛なポイントである。なぜなら、「したい」という言葉は、「すべき」という言葉よりも、より自主性・主体性が求められるからである。「すべき」という言葉はある意味客観的な社会通念・一般常識に照らし合わせ、そこに自分の考えや行動を従わせることができる。だが、「したい」という言葉は社会に拠り所がない。あくまで自分自身にしか拠り所がなく、孤独な思考である。

以上が、とりとめもないが「自由からの逃走」を読んだ感想である。


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