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セネカが「生の短さについて」で語っていることはホリエモンの人生哲学に通じる部分が多い

私は、常々、人に時間を貸せと求める者がおり、求められるほうもいとも簡単に貸し与えてやる者がいるのを見て、驚きの念を禁じえない。時間が求められた目的は、どちらの眼中にもある。だが、時間そのものは、どちらの眼中にもない。まるで求められたものは無であり、与えられたものも無であるかのようにである。時間という何よりも貴重なものを弄んでいるのだ。

セネカ「生の短さについて」大西英文 訳

”タイム・イズ・マネーという言葉は間違っている。お金なら増やすことも可能だ。しかし、時間だけは誰にも増やすことができない。まさしく有限の「命そのもの」であり、タイム・イズ・ライフなのである。”とはホリエモンの言葉だが、既に2000年前にローマ帝国の哲学者、セネカが同じようなことを言っていたことに驚かされる。いや、セネカがホリエモンと同じことを言っていたのではなく、ホリエモンがセネカという歴史上著名な哲学者と同等のことに気づき、発言したことに驚き、また感銘を受けた。

少し前に、自分が朝起きたら50歳になっていた夢を見て、夢の中で「もう気づいたら50歳か」と焦ったことがある。年をとるごとに時間が経つ体感速度がどんどんと速くなり、言いようのない不安と焦りを感じるようになることが多くなっている。おそらくその不安とは、多分このまま毎日忙殺され、「忙殺されている毎日=充実した毎日」と思い込みながら気づいたら年をとってから「自分はこれまで何をしていたのだろうか」と後悔しながら死ぬのではないか、というものである。この夢を見てから、生物学的な寿命は延ばせずとも、精神的な寿命を延ばすことはできないか、つまり時間が経つ体感速度を少しでも減らし、充実した毎日を過ごすことはできないか、と考えたことがある。

そんな中で以下のアインシュタインの言葉に出会った際に「つらいこと、苦痛なことを毎日行えば時間の体感速度は遅くなるのではないか」と思い、ちょっと苦痛に感じること(暑い日に外を歩いてみる等)に手を出してみるが、どうもそれも違うらしい。暑い日に太陽の日差しを浴びて歩くのは本当に苦痛だ。

When a man sits with a pretty girl for an hour, it seems like a minute. But let him sit on a hot stove for a minute – and it’s longer than any hour. That’s relativity.
”可愛い子と一緒に座る1時間は1分に感じ、熱いストーブの上に座る1分はどんな1時間よりも長く感じる。それが相対性理論だ”

(アインシュタインの名言)

そんな中で本書「生の短さについて」を読み、以下の箇所を読んだときに気がついた。自分が求めていたのは、時間の体感速度を遅くすることではなく、使った時間について後で振り返った際、後悔することなく充実していたか、どうかという点であることを。重要なことは時間を自分のために使い、あたかもそれが最後の日であるかのように生きる、という点であることを。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼がを享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる。
誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためだけに使い、1日1日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

セネカ「生の短さについて」大西英文 訳

一言で言えば、” Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever by ガンジー(明日死ぬかのように生きろ。永遠に生き続けるかのように学べ)”という生き方こそ、最も充実した生なのだろう。自分は自分自身のために時間という最も大切なリソースを使えているのか。改めて振り返りながら過ごしていきたいと思わされた著作である。

以下、その他「生の短さについて」の中で心に残った言葉を記載しておきたい。

・人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

・しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟られなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気付かされる。

・われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。

・生は、使い方を知れば、長い。しかし、ある者は飽くなき貪欲の虜となり、ある者はあくせく精出するむだな労役に呪縛され、ある者は酒に浸り、ある者は怠惰に惚ける。

・また、常に他人の判断に生殺与奪の権を握られている公職への野心で疲労困憊する者もいれば、交易で儲けをという希望を抱いて闇雲な利欲に導かれ、ありとあらゆる土地をめぐり、ありとあらゆる海を渡る者もいる。多くの者は他人の幸福へのやっかみか、己の不運への嘆きで生を終始する。

・何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくされる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩き回り、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみれば良いのである。

・誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分の用のためだけに使い、1日1日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

・誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

・先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。

・生は三つの時期にわけられる。過去、現在、未来である。このうち、我々が過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確実であり、過ごした過去は確定している。過去が確定しているのは、運命がすでに支配権を失っているからであり、何人の裁量によっても取り戻せないからである。その過去を、何かに忙殺される人間は見失ってしまう。彼らには過去の出来事を振り返る暇がないからであり、また、その暇があるにしても、後悔していること思い出すのは不快だからである。


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