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小説『僕は電波少年のADだった』〜第1話 「最初だからこの辺にしておくか」と黒川は云った。

「では黒川班の人事異動を発表する」
そういう黒川の前にいたのは、僕ともうひとり大福という入社同期の男ふたりだけだった。人事異動もくそもないだろ、そんなツッコミは許されない長い長い戦いの開催宣言が行われたのだった。

 当時、僕達は昭和テレビ制作局に所属する三年目の社員。
 大福は人事部を二年経験し、頼み込んで制作局に配属になったばかりのベーカムが何かも分からないド新人AD、僕は、第15回アメリカ横断ウルトラクイズに同行して、いっぱしの制作が分かったつもりになっていたベーカムが何かしか分かっていない新人ADだった。そして我々のその後の人生を30年に渡って左右することになる師匠・黒川仁男、当時35歳か?。それがあたらしく編成された黒川班だった。
 当時、昭和テレビでは<11木スペ系>と呼ばれる『11PM』改め『EXテレビ』という23時台のなんでもバラエティ生放送と毎週木曜日のゴールデンタイムを奇想天外の企画で彩るチームや、<音楽班>と呼ばれる音楽行政を一手に引き受け『歌のトップテン』という看板番組を中心とした歌番組チームなど様々なチームがある状況で、それぞれ〇〇班と言えば総勢20名ほどの大所帯だったにも関わらず、黒川班は当の本人を入れても3人。そのうち2人は海のものとも山のものともつかないド素人。電波少年は、そんな脆弱な班で作られているひとつの番組でしかなかった。
 さて黒川とは、この配属が初対面ではなかった。昭和テレビ入社前の内定者研修で、我々に「テレビ制作現場とは何か?」という講義を担当してくれた先輩だった。だから名前と顔は一致していた。それどころか、彼は入社前の研修で我々に「テレビマンは楽しいぞ。芸能人とは友達になれるし、お姉ちゃんにはモテる。」などと有名芸能人と銀座に行ったとか、女優とお茶したとか夢のような事ばかりを語っておきながら、入社後の挨拶で「あの時皆さんに話した話は全部嘘です。だって人事部が『内定者が楽しくなるような話をして下さい』って言うから、話しただけです。君達が現場に来れば、弁当もロクに食べられない地獄のAD生活が始まりますし、現場を希望したからって、その希望が叶うとも限りません」などという恐ろしい話をして、ビビらせた人。
 あれから二年の月日が流れ、まさか自分の上司になるなんてこれっぽっちも思っていなかった。赤塚不二夫を叩いて、伸ばして振り回したようなおっちゃんが、さも大切な発表のようにこう言った。
「大福はアッチャンカッチャンの世界制服宣言、長餅は電波少年」
こうして僕の電波少年生活が始まった。

 電波少年とは正式名称『進め!電波少年』というタイトルで、梅本明子と梅村邦宏を司会に、様々な企画に二人が体当たりで挑戦するロケバラエティ番組だった。番組自体はまだ始まって1年がたったところ。もともと3ヶ月だけのリリーフ番組としてスタートした電波少年は「デブのものまねタレントが渋谷のチーマーを注意する番組」として少し有名になった頃。記憶によると僕が入ったこの段階、番組が始まって1年3ヶ月だったこの頃でも、まだ<アポなし>というワードでさえ番組のアイデンティティとして確立していなかったと思う。
 3ヶ月で終わるはずだったが終わらなかったのは、すごく視聴率が良かったからではない。実際、局内視聴率週間ランキングの10位にも入っていない程度の数字だった。ただちょっと話題になっていたのだ。ある限られた範囲の人々の中で「これまで見たことない番組」として認知されていた。話しによれば中高校生男子の熱狂的な支持があったとかなかったとか。すると3ヶ月で終わる予定が「終わらされない程度の視聴率を取る」という黒川の宣言のもと、「終わらせるには惜しい程度の視聴率」を取り続け、5クールが過ぎ、ついに人員が補充されたのだ。会社的に人員が補充されるというのは、一応番組が存続してゆくことがベースという立ち位置になるのだが、有能な社員が充てられるわけもなく、黒川のもとに実力不明というか皆無の二人、しかも新入社員でもない二人があてがわれたわけだ。
「たいだい新入社員というのは、社の期待を背負う人材だからウチに配属されるわけないもんな」というのが後の黒川談。


 さてそんな3人しかいない小さな小さな黒川班の初の人事異動の発表に続いて、彼は突然「オチとは何か」についての講義を始めた。
「オチには必ず点がある。こうフリがあってツッコミが入って点がつく。これがオチ。そしてフォロー。このフリ・オチ・フォローの3つが揃って笑いは生まれる。」それは欽ちゃんこと萩本欽一仕込みの笑いの理論だった。欽ちゃんはこの笑いの理論を見つけて実践した人。そこに『元気が出るテレビ』のテリー伊藤のロケテクニックが加わってネタを構成する。それが黒川的演出、電波少年的手法となっていた。
「笑いには色んな種類があって有名なのが天丼、繰り返しの笑いだな。あと三段落ち。『ジャッキー・チェンは本当に強いのか』『ユン・ピョウは本当に強いのか』と来て、次の企画は『宮澤喜一は本当に次の企画は強いのか』とくるみたいなもんだな。この場合、本当に強そうなユン・ピョウやジャッキー・チェンがフリになって宮沢熹一がオチ」当時我々がこぞって使っていた局配給の原稿用紙(テレビ用原稿の略だと思われるが、その原稿用紙を我々は「テレ原」と呼んでいた)の、裏にその企画名が3つキレイに並べて書かれた。

 ◯◯は本当に強いのかという企画も放送当初の当たり企画で、デブのものまねタレントという認知しかなかった梅村邦宏が、空手着にハリセンを持って強いと思われる有名人を待ち伏せし、「◯◯!覚悟ーっ」という掛け声とともに奇襲。返り討ちにあってボコボコにされるというもの。このリアルなドキュメント映像が電波少年的手法で編集されると大爆笑のVTRとなった。 
 この予定調和の真逆を行くロケバラエティ番組、それが『進め!電波少年』だった。これまでの短いテレビ屋生活の中で、笑いの構造についてここまではっきりと言語化され、講釈されたのはこれが初めてだった。面白いテレビを作るのはセンスだと思っていた僕は目からウロコがぼろりと落ちた。

フリ・オチ・フォロー…フリ・オチ・フォロー

 大きくずれてはいけない、みんなが考える道筋と少しずれてる。でも聞いたら「あー」と思う、でも「あー」では失格。笑いが起きるくらいのズレ。それがボケ…

 ともかくすべてが理論化されていた。あまりに濃い内容でそのすべてを理解することは不可能だった。今もその時聞いたことの10分の1も覚えていないのだと思う。たいだい、そんなものを勉強したことなど人生一度もないし、そんな理論があることさえ知らなかった。テレビや映画関係の本は大好きで、結構読んでいたほうだと思うが、やはりプロは違う。黒川班は純粋なお笑い班だ。お笑いのプロだ。この一門に入ると、こういうテクニックが口伝される。口伝でしか得ることはできない、いや口伝でさえ得る事はできない。自分で咀嚼し、工夫し、ネタを作り、客の反応を見て、反省し、自分のものにしてゆかねばならない。
 そんな授業が20分ほど続き、一通り終わると、
「と、聞いただけで分かれば苦労しないし、お前たち二人ができるとも思ってないんだけどね。最初だから、この辺にしておくか」
と、黒川は言うと、タイミングよく僕ら3人が座っているテーブルの横を、かっこよいシステム手帳を広げてスケジュールチェックしながら通り過ぎようとした番組プロデューサーの小豆さんを捕まえて。
「小豆ちゃん、この新人アッチャンカッチャンにつけるから連れてって、今日ロケやってたよねえ」
 こうして同期の大福は『アッチャンカッチャンの世界征服宣言』という番組のロケ現場へ、小豆さんは電波少年と世界征服宣言のプロデューサーを兼務していたのだ。「じゃ松田さんに紹介しなきゃな」と同期の大福は、小豆さんに連れられ出ていった。
 アッチャンカッチャンは、僕が大学生時代食い入るように見ていた『夢で会えたら』という番組で看板を張るほどのお笑いスターコンビで、その二人が昭和テレビでレギュラーを張っていたのが『アッチャンカッチャンの世界征服宣言』。ちょうどその時、<いちご組>というアイドル企画を展開していて、大福はアッチャンカッチャンと仕事できるうえに、可愛いのにYバックとかいう露出度満点のエロい水着で踊るアイドルと仲良くなるかもしれないのかーと思うとちょっと羨ましかった。 

 一方、僕は今人事異動の発表があったテーブルのすぐ横にある電波少年の仕上げが行われているMA室に連れてゆかれた。黒川は「新人はいりました」と僕を紹介した。覇気をまとった4人のディレクターの視線が僕に向けられた。
「よろしくお願いします」
 それが僕の電波少年スタッフとしての第1声だった。

 テーブルの上におかれたフリ・オチ・フォローの図と3つの企画が書かれた紙がおかれたテーブル、窓から差し込む夏の夕方の陽ざし、あの日のあの場所の様子を僕は今でもはっきり覚えている。なのにこのMA室に入った直後から、しばらく全くきおくがない。その瞬間から怒涛の電波少年AD生活が始まったのだ。

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