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「誰かの役に立ちたい」という欲が消えなくて

もう随分前のことだけれど、薬剤師として病院に勤務していた時期がある。
そんなに大きな病院ではないが、割と歴史があって、地域の人が集まる場所だった。

その日、私は何かの印刷をしに総務に行っていた。
病棟と薬剤科を行き来するばかりの日常なので、待合室を通るのは久しぶりだった。
「あの、すみません」
話しかけて来たのは60代後半くらいの女性だった。
もうお昼休みに入ろうかという時間で、診察を待っている人もまばらだった。
「すみません、今日は何月何日ですか?」
想定外の質問だったので、私は驚いた。
その日の日付を答え、診察を待っているのかと聞き返すと
「それが、わからないんです」
と言う。
ちょっとただ事ではないなと思い、私もベンチに腰掛けて話を聞くことにした。
的を得ないやり取りが続いたが、段々と様子がわかってきた。
その人は、
自分は認知症である(自覚している)
そのため、薬を飲んだか飲んでいないかわからなくなる。
お薬カレンダーなどを使ってみたが、今が何月何日なのかわからないので意味がなかった。
診察日もよくわからない。
とりあえず今、薬は家になさそう(自信はない)
間違って何回も飲んでしまっていたらどうしよう。
旦那さんは早くに亡くなって一人暮らし。
娘が一人いるけれど、あまり仲良くはないし、迷惑をかけたくないので連絡していない。
という状態らしい。
話しているうちにその人は泣き出してしまった。
どうしたら良いのかわからず、とりあえず薬が見当たらないから病院に来てみたけど、こんな話を誰にしたら良いのかわからなくて……と、言っていた。

めちゃくちゃ困ってるわ、この人。
私も泣きたい気分になった。
もしかしたら、人に頼ることをせずに生きてきたのかもしれない。
私は目の前で困っている人を助けたいと思い、自分にできることをあれこれと考えてみたけれど、人としても薬剤師としても役に立てることはほとんどないなと落胆した。
唯一できたのは、ケアマネさんを呼んでくることくらいだった。

聞いた情報をケアマネさんに引き継いで、私は自分の仕事に戻った。
その後、その人がどういうサービスを受けることになったのか、私は知らない。
少なくとも相談をする前よりは、安心して生活できるようになっているはずだと信じたい。
でも、どれくらいの期間ひとりで悩んでいたのだろうと思うと、なんだか心が晴れなかった。

困っている人の助けになりたい、という気持ちが、少し私は強すぎる。
言い方を変えると、「誰かを助けることに自分の存在価値を見出している」のだ。
それはその人のためでなく、自分にベクトルが向いている。
それでもやらないよりは、やったほうがいいに決まっている。
でも、仕事にするには、向いていない。
患者さんの『お困りごと』は次から次へとやって来て、それを適切に裁かなければならない。
解決できることもあれば、できないことも多い。
それは私の力不足のこともあるし、制度上不可能なこともある。
自分の倫理観といつも議論をしているし、患者さんには患者さんの、医者には医者の、薬剤師には薬剤師の、家族には家族の、正しさがある。
そうやって”解決できなかったお困りごと”が自分の心に影を落とすようになるまで、そう時間はかからなかった。
決して悪いスタッフではなかったと思うが、私は病院で働くことをやめた。

それからは、調剤薬局で働いてみたり、本屋で働いてみたりしたけれど、人との関わりに重きを置きすぎてしんどくなることが多かった。
「自分は誰かの役に立てる人間なのだろうか」とぼんやりと思いながら、もうすぐ大学院を卒業して10年になる。
働いている時も、働いていない時も、私の中にはずっと『無力感』があった。

とりあえず今は、家のことをできるだけ頑張って(本当は苦手なのだけど)旦那さんに健康に過ごしてもらうことと、私の歌を聴いた人が元気になってくれたら、それが嬉しい。
noteを読んで「こんな人でも生きてるから、私も生きてていいんだ」と思ってくれたら、書いている意味もあるってことよ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!