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映画「ドライブ・マイ・カー」は自分自身と向き合うこと

「自分と向き合うこと」がこの映画の1つのゴールだと思う。ドライブ・マイ・カー(自分の車を運転する)とは、自分の人生を自分で生きる(運転する)というメタファーなのではないか。(椎名林檎もニュアンスは違うが「走れわナンバー」にて、借り物の身体をどこへ運転するのかという趣旨のことを歌っている)

家福(西島秀俊)は自分の車を渡利(三浦透子)に運転してもらうが、それは「時には人生を他人に委ねて、休みつつ客観的に見てはどうか」という意味なのだと思う。一方で家福の車を運転していた渡利は、最後は自分の車を韓国で運転している。母親の車や家福の車という「他の人の人生」を運転し続けた彼女は、ついに自分の人生を自分で歩み始めたことを表現していると感じた。

追加で補足すると、自分の車で事故を起こしてしまった高槻(岡田将生)は、自分の人生をコントロールできなかったということだろう。車は修理されて近日中に戻ることになっていたから、彼の人生もそのうち再構築できればいいのだけれど。


自分と向き合うことは簡単なようで実は難しい。自分が気づいていない自分(気持ちや思いや欲望、と言い換えられるかも知れない)は意外とたくさん存在していて、それを見つけるには相応の時間と道程が必要だ。この映画は、人の死と、他者との関わりで、自分の奥深くにある自分と向き合う過程を繊細かつ丁寧に描写している。そして不思議なことに、映画の中で創られていく舞台劇の台詞を通じて、観ている私達も自分と向き合うことを迫られる。

私が一番好きなシーンは、渡利の実家跡で家福が「音に会いたい」と吐露する場面だ。「音に会いたい、会ってなぜこんなことをするのか問い詰めたい」という趣旨のことを渡利に話していた。それこそが、彼自身が気づいていない(あるいは見て見ぬ振りをして蓋をしてきた)奥底にある家福悠介の「本当の姿」で、渡利との関係性を構築する中でそこに辿り着いたのだ。それを、こみ上げる怒りや悲しみや後悔や愛情など入り交じる感情を抑えつつも抑えきれずに漏れ出てしまう、静けさのある激情を演じられた西島秀俊さんは素晴らしかった。


「音に会いたい」


私はこのシーンを見ながら「クロエ」という映画のラストシーンを重ねていた。黒江(ともさかりえ)と高太郎(永瀬正敏)が恋に落ちて夫婦になるが、黒江が肺に蓮の花が咲く病気になってしまうという作品。(因みに、黒江の主治医役で西島秀俊さんが出演している。)黒江は亡くなり、葬式のあとのシーンでは「黒江はこの世界の悪いものを全部あっちに持っていってくれた」と高太郎は悟ったような気持ちの整理がついたような顔で呟くが、エンドロール直前でタバコの煙を吐き出すと同時に「黒江に会いたいよ」と泣き出すのだ。

亡くなってしまった愛する人への思いを吐露する、そのリアリティに私はどうしようもなく共感してしまう。自分の身近な人が亡くなったら「それでも、上を向いて生きていく」なんてポジティブには締めくくれないと思うのだ。絶望に打ちのめされ、人生の歩みを止め、振り返って、後悔したり楽しいことを思い出したり、突然悲しみに襲われたり、それでも日常はやってくるからなんとか這いつくばって前に進むけれど、やっぱり悲しいものは悲しくて、泣いても泣いても涙は枯れなくて、この思いを誰とも分かち合えなくて苦しんで、そんな割り切れない状況がそこにはあるはずで、作品で「死」を扱うのであればそこまで繊細に描ききって欲しいと思う。人はそんな単純で格好良いものではないだろう、もっと惨めで情けなくて、淋しくて後悔して今ある幸せに感謝できない、どうしようもなく格好悪い生き物なのだから。そして、その悲しみや苦しみを乗り越える強さも兼ね備える、矛盾した生き物でもある。


ドライブ・マイ・カーは、人間の恰好悪さ、相反する強さ、その間にある矛盾をリアリティを持って繊細に描いていた。幾層にも重なる感情のレイヤーをその揺らぎや動き方もしっかりと捉えた上で表現していて、私の心を掴んで離さない。


そして劇中の数々の台詞は私達に問いかける。自分の人生をちゃんと生きているのかどうか。本当の自分は何を欲しているのか。私は果たして、自分の車を自分で運転しているだろうか。

音声配信アプリSpoonでもご紹介中。ぜひお聞きください。

永池マツコの日々シネマチック Vol.063
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ながいけまつこ


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