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「晴れの日も雨の日も」#90 37回目の9月15日

1985年9月15日、私たちは結婚した。
私も細君もまだ24歳。私が本格的に仕事をし始めて、まだ2年目のことだ。

大阪で結婚式・披露宴をあげ、2次会は私の青春の街 京都に場所を移し、遅くまでドンちゃんやったあと、翌日からカナダに新婚旅行に出かけた。まだ安月給の頃だ。よう行ったなあと今にして思う。そして東京小金井市にあった新婚社宅を振り出しに37年というながーい時間を一緒に積み重ねてきた。

月並みだが、この37年間にはいろいろなことがあった。

翌年には第1子(長女)が誕生。
当時の上司からは「子供は2人にしとけ」とご忠告を頂いた。が、こちとら馬耳東風。3人目ができた時には「だから言ったじゃないか」と言っていたその人も、4人目ができた時にはさすがに何も言わなかった。

そこからさらに一人増え5人の子宝に恵まれたが、一番下も大学1年生で遠地に出た。#1から#4は巣立ちの時期を迎えつつあり、37年を経て私達はまた二人に戻りつつある。

さて、私は中学の頃から人並みもしくはそれ以上に恋多き少年だったが、一方通行専門で、細君に出会うまで女性と付き合うご縁はなかった。それが就職後、研修中の気楽な身の上でフラフラしてた頃、会社の行事で細君に出会った。飢えたライオンが檻から解き放たれたようなものだったかもしれない。

その後すぐに私は東京に転勤になり、私達は遠距離恋愛に突入した。
LINEもメールもない時代だ。電話とお手紙の清き交際である。
逆にそういうもどかしさに耐えかねて、私達は電車道を行くが如く、スピード結婚をするに至った。

就職と結婚は男の2大イベントである。入社まもない頃、同期が集まると、彼女のいる/いないで自然とグループに別れ、いるチームは彼女と結婚する気があるのか無いのかを語り合い、いないチームは誰が結婚早そうかなんて話をよくした。私は当然後者グループで、間違いなく結婚レースのべべ(ビリ)や、と言われていた。それが大どんでん返しのスピードゴールインである。人生わからんもんだ。

さてお待ちかねの新婚生活。
ところが1年目はよく揉めた。
すぐに第1子がお腹に入って、新妻の体調が優れなかったこともある。
しかし、それ以上にお互いに相手への期待が大きすぎたのだろう。相手を理解するとか相手のために、というより、自分の話を聞いてほしい・理解してほしいばっかりだったと思う。
今にして思えば、勢いだけで結婚したようなもので、二人で一緒に生きていく基盤が十分できていなかったのだと気づく。
私がモーレツサラリーマンで、毎日帰宅が遅かったことも影響していたかな。
たとえば3日ぐらいずっと険悪で、朝、口もきかずに出勤し、「今晩帰ったら部屋は真っ暗で「実家に帰ります」なんて置き手紙があるだけかもしれんなあ」と覚悟?妄想?をしたことも一度や二度ではない。

しかし、子はかすがいとはよく言ったものだ。この子が生まれてから、私達はペースをつかみ、安定した気持ちで生活を送れるようになった。ようやく家族になれたのだと思う。

その後、インドネシア駐在を含めて計5回、通算約16年の単身赴任を経て、今に至る。細君は仕事を始め、また、私の不在中いろいろ起きることをさばいたりして、頼りがいのあるパートナーとして頑張ってきてくれた。

私は博打やタバコこそやらないが、大酒飲みで、酔っ払うと記憶もモノもよく失くす。ま、いわば、品行方正とは対局のクチだ。また、細君が一番しんどい時に十分寄り添ってやることもできなかった。
にもかかわらず、これまで大きな離婚の危機もなく、子供たちとも良好な関係を築いてこれたのは、ひとえにこの細君の寛容と忍耐によるものだと感謝している。

交際時代も、新婚時代も、ゆっくり甘い時間を二人で味わうということにはどちらかというと縁遠く、とにかくがむしゃらにここまで共に生きてきたパートナーという感が強い。スキとかキライという話ではないのだ。あえて言えば「同志」とか「戦友」というのに近いかもしれない。

私は、家にいる時間も増えた今、これから少しづつでも恩返しをしていきたいと思っている。
お母さん、これからもよろしくお願いします。

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之
仕事のご連絡・その他ご相談等はこちらに→nagairb21@jcom.zaq.ne.jp

<予告>
#91 物欲
#92 柔らかいこころ
#93 やる気のないヤツ
#94 人生が二度あれば
#95 先憂後楽とは言うけれど

(続く)

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