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晴れの日も雨の日も #151 岡本太郎と「後味」

つい最近、贔屓にしているポッドキャスト「独立後のリアル」で岡本太郎(以下失礼ながら敬称略で記載させて頂く)の話が出た。このポッドキャストでは、その少し前に「先味中味後味」という話があり、この2つの話が私の中でつながって記事の構想が膨らんでいた。

時を同じくして、御手洗さんが岡本太郎展に行ってきた、という記事を投稿された。「言いたいことあるんやったらアンタもはよ書け」と御手洗さんに背中を押された(ソンナイイカタハシテオラレナイ:御本人の名誉のため訂正)。いずれにしてもシンクロを感じたので、急ぎ記事にすることにした。


①岡本太郎:万博公園の太陽の塔に加え「芸術は爆発だ」の名言が有名だ。が、この言葉、表現にエキセントリック感があり、珍言ととられたり誤解されたりしやすい。私も正直やや乱暴な印象で理解していた。それを上記ポッドキャストで訂正頂いた。

「爆発」はbombではなく、自分自身が大宇宙に向かって開いていくことだという。

天外伺朗「宇宙の根っこにつながって生きる」や青山圭秀「理性のゆらぎ」を読み、自らも気功を日々続け、宇宙を身近に感じている私には、この話はごく自然に染み込んできた。

で、このポッドキャストでは、岡本太郎はめちゃめちゃスゴイんだけど、すごすぎてなかなか人がついてこれない。やりすぎは敬遠されたり誤解されたりしやすい。という話に続いた。なるほどな〜。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。
人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、
その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。

芸術は爆発だ。

これは随分前からの私の信念であり、貫いてきた生き方だ。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。
それが爆発だ。
人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。
いのちの本当のあり方だ。

岡本太郎 「自分の中に毒を持て」

②先味中味後味:上記ポッドキャスト#146はサンマーク出版社長の黒川さんのnote記事が話の発端だ。
先味は前評判、中味は中身そのもので、後味まで良くなって初めてリピーターやファンができる、という趣旨だ。

中味に直結する結果は当然大事だが、結果と後味は必ずしも同一ではなく、先味・中味・後味をひとつの「文脈」として設計することが必要だ、ということが黒川さんやポッドキャストから語られる。

なるほどなあ。私はこれまで、中味さえ良ければ後味は必ず良くなる、それが先味につながる、と思ってきた。中味(=実力)をあげることしか考えていなかった。先味や後味の設計・ストーリー性という視点に刮目した。確かに、自分ではいい中味だと思ってても、相手がそう思うかはまた別問題であり、食べた瞬間は美味しいような気がしても、後から思い出すと印象がイマイチで、もう1回行きたいとは思わない、なんてこともありそうだ。

③ ①✕②:岡本太郎も中味は抜群だが、後味は必ずしも良くない、というキライがあるのではないか。やりすぎ感が後味の邪魔をしている感じがする。で、誤解されたりする。
相手がどう思うか、相手に何が残るか、ということがすべてだ。そういう意味では後味が一番大事なのだ。後味が良くなるように中味そのものやその出し方を考える必要があるのだと思う。
そして後味を良くするためには「余韻」とか「爽やかさ」が重要なキーワードなのだろう。暑苦しいのではなく「名残惜しい」ぐらいがちょうどいいのだろう。

が、一方で、岡本太郎はやりすぎであろうがなんであろうが、徹底して最後までやり抜き、太陽の塔を始めとする大きな足跡を残した。一部に誤解を生もうが、刺さりまくる強烈な足跡を残した。渾身の足跡を。

「爆発」は「自分を解放する」「とらわれなく思う存分やる」と言ってもいいだろう。この道はこれまで結構指向してきた。が、岡本太郎レベルまでやりきる自信も正直ない。人目も気になる。「余韻」「爽やかさ」「後味の良さ」も考えていきたい。できるかな〜?

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

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<予告>
#152 気づきのその先に
#153 力雑感
#154 痛いの痛いの飛んでいけ〜

(つづく)

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