十年後

割引あり

 ニルバーナの、赤ちゃんがプールで泳いでいるジャケットのアルバムを貸してくれた男の子は、ロミに顔が似ている女の子と後に結婚するが、そのときはロミの肩を掴んだ。廊下の、階段の手前だった。
 ロミがその高校を選んだのは、父の母校だったからだ。高校には行きたいと思って行ったのではない。みんな行っているから、自分もきっと行かなくてはいけないのだろうと思った。
 ロミは勉強が嫌いで、小説と漫画を読むことと書くことと、お菓子作りが好きだ。中学時代は授業中にほとんど先生の話を聞かず、家に帰ったら今日はなんのお菓子を作ろうかとか、どんな小説や漫画を描こうかとかを考えたり、なにも考えずにぼうっとしたりしていた。
 ロミたちは、顔とか髪の毛とか制服の着こなし、体の形で相手の印象を掴んだり、自分の存在感を場に拡散させたりしていた。ニルバーナを貸してくれた男の子は、学ランの下に紺色のパーカーを着て、フードを被っていた。ロミはクラスメイトのマユリにそのときの話をして、肩を掴まれてすごく嫌だったけどCDは借りた、と言ったらマユリは笑っていた。
 同じ高校の中にいて、仲良くしている人でなくても、校舎の中にある体は体同士しっかりとすれ違っていて、男の子は違うクラスでお互い存在は知っていたけれど、急に廊下で話しかけられて、CDを貸してくれるということになった。
 二週間で辞めた駅前のコーヒー屋でバイトしていたときに、同じ時間によくシフトに入っていた二十歳年上の女の人にCDを借りた話をしていたら、多分涙ぐまれていただろうとロミは思う。その女の人はロミがどんな話しても、かわいそう、と言って涙ぐんでいた。
 CDは、両親のものが家にあるから触ったことはあったが、人から借りたのは初めてだった。久しぶりに触ったCDは、ケースが濁っていて、指先の水分が持っていかれた。
 高校に入学しなければ家にいて、家にいればアルバイトをしていたか、なにも動かず家でじっとしていてもつまらないし、親がなにか言うだろうから、なにかはしないといけない。結局高校には行くことになっていただろう。ロミは高校に自転車で通っている。
 ロミは、黄色くて丸いスポンジケーキにカスタードクリームが挟まった、どこかの地方のお土産のお菓子が昔から大好きで、好きすぎて小学四年生のころ、そのお菓子の工場の見学に行ったことがある。両親に車で二時間かけて連れていってもらった。ガラスの向こうで、ベルトコンベアーにのせられた、黄色くて丸い手のひらにおさまるサイズのスポンジケーキが、機械にひっくり返されるたび、音は聞こえないのに、
 ぽこっ、ぽこっ
 と鳴っているような気がした。
 高校生である今の自分を、工場見学していたガラスの向こう側に重ねていたわけではなかったが、高校に入ることは、ロミに限らず、ベルトコンベアーに乗せられた黄色くて丸いスポンジケーキになったことと同じで、ぽこ、ぽこっとやられているのだった。
 家の庭にある物置にCDプレイヤーがあるのは知っていたが、わざわざ砂埃だらけの物置の戸を開き、汚れた手でCDプレイヤーを取り出して家に入れて、自分の手を洗いプレイヤーを雑巾を濡らして拭いて、とかしている間に母親に見つかって、なに、CDなんて聴くん、いや、友だちに借りたから、みたいなやり取りをするのを頭の中でシュミレーションしただけで体が怠くなったから、ニルバーナのアルバムは聴かずに返してしまい、良さがロミには分からなかった。
 ロミの中学時代の後輩のキミカは、両親がビートルズ好きで、ビートルズをかけながら天気のいい日に床を雑巾で拭いている母親の話をして、話を聞いたときロミは、その情景を頭の中で思い描き気持ちが良くなった。その母親は料理好きで、キミカに今日の晩御飯はこれこれこうです、と毎日LINEしていた。ロミはキミカの住む高台に建つ一軒家がうらやましかった。
 ロミは生まれてから今までの肉体の状態を思い出すことができない。高校に入り急に男の人を気持ち悪いと思うようになったのは、なぜなのか分からない。
 なんとなく、子どもを持ったほうがいいという空間の中に、誰かの会話や映像の言葉などがあったとは思うが、ロミは未来の自分を想像するときはいつも一人で、暗闇に光る緑色の蜘蛛の巣のようなレーザービームの中を歩いていた。目の前には踏切があり、踏切の向こう側にロミは行きたくて、トワイライトゾーンのテーマソングがどこからともなく流れてくる。
「このドアを創造の鍵で開けてください。新しい次元が広がります。音の次元、視覚の次元、魂の次元。影と実態が交錯する未知の世界。今、足を踏み入れようとする世界が……」
 ロミの父が大好きなトワイライトゾーンを、ロミは見たことがないし、テーマソングも知らない。
 十年後のロミは確かに踏切を渡り駅の出口の反対側へと一人で歩いていて、緑色のレーザービームはないけれどもそのような雰囲気があり、その未来の記憶が高校生のロミには小さな破片のような形で空間にある。
 部室でお湯を沸かすからおいで、とニルバーナのアルバムを返したら男の子に言われ、マユリとついていく。男の子の名前は蛭川くんでヒルと呼ばれている。ヒルはテニス部だと言って、男子テニス部の部室にはなぜかコンロが備え付けられていて、ヒルはテニス部だと嘘をつき家庭科部が使っている最中の家庭科室に勝手に入りヤカンに水を入れお湯を沸かした。
 校舎の一部分でお湯が沸いていることに高揚し、三人は丸椅子を並べお湯を囲み話しはじめた。三人の周りでは家庭科部の人たちがこんにゃくを煮たりさやいんげんの筋を取ったりしていた。
 世界史の小野は、授業の前に毎回同じ話をする。葬式で死体の足を持ったら(運ぶために)とてもぶよぶよしていたという話。小野は滑舌が悪く、八割がたなにを言っているのか分からないが、その話は毎回聞かされるので、前回聞き取れた部分と今回聞き取れた部分を繋ぎ合わせ、というのを毎回繰り返して、今では小野に世界史を教わっているクラスのほぼ全員(寝ている者と話をまともに聞いていない者以外)がその話の内容を理解している。ヒルは、小野がその話をするときの話の内容にも好感はあるが、唇の動かし方や肩の体の中央に巻き込み具合、黒板とそこに板書されたチョークの筆跡を背景にした小野の体の位置、そういうものが強い印象となり、そこまでをロミとマユリにお湯の前では話しはしないが、俺は小野に好感を持っている、ぐらいの話まではした。ロミは、先生に好きとか嫌いとかの感情がなく、ただ教える大人という感覚。マユリにとっては小野は静かで小さくて老いていて教えてくれる無害な人。ヒルはロミに顔が似ている女の人と結婚して子ども(女の子)が生まれその子が学校に行くようになった際に、お父さん私は授業中たまに教壇と教師がぐんぐん小さくなり黒板の中で遠くなる瞬間があるんだ、と打ち明けられ、俺もある、あったあった分かるその感じ、となりそのとき一緒に小野のことを思い出したが娘に小野の話はしなかった。
 マユリは自分の家の裏にある川のことを思い出していた。ヒルの小野の話は終わって次の話題に移っていて、小野の死体の足を触ったらぶよぶよしていた、という話から、水死体のイメージが湧き上がり、そこから家の裏にある川に連想が繋がり川のことを考えはじめたのだが、マユリは自分ではそんな意識はなくただ今は川のことを考えていた。
 マユリの住む家のすぐ脇に交通量の多い道路が
通っていて、道路側にある両親の寝室兼家族全員のクローゼットになっている部屋にいるときにトラックなどの大きい車が通る深夜は轟音とともにまるで地震が起きたかのように部屋全体が揺れる。
 交通量が多くなったのは、道路の南側に進んだ先にある高速道路の出口周辺が栄えてきたからで、道路の北側を進むとマユリの家の裏にある川に架かる大きな橋がある。橋はマユリが六歳のころにできたようだがマユリに橋が作られていく過程の記憶はない。橋にある歩道は上流側にのみ設置されていて、そこを歩いている人はあまりいない、自転車の人はたまにいるが橋は南から北に向かい緩く長い勾配になっており登る人の大体は後半立ち漕ぎになる。
 今ある橋ができる以前から橋はあり、その橋は冠水橋で何回も補修されたり改修されたりして渡し船も出ていた。以前と言っても渡し船はかなり古く、戦後すぐ廃止されて、冠水橋はマユリが生まれる約二十年前に撤去されていて、次にできた橋は冠水橋ではないけど現在の橋のすぐ上流側に架設され今の橋よりすごく道幅が狭いから片側交互通行だった。
 今の橋はコンクリートでできていて巨大で、マユリの家の裏はその橋と川との景色でできている。マユリはロミと同じく高校へは自転車で通っていて、高校は橋の南側にあるのでマユリは登校時に橋は渡らない。都内に行く用事があるときには南側にある自分の町にある駅からより、橋を渡った先にある隣町の駅からのほうが乗り換えが少ないから橋を渡る。
 橋の真ん中辺りの川岸に小さな山があり、橋は高さが四メートルぐらいあるからその山もだいたい四メートルはある。自然の地形による山ではなく、マユリの記憶では確か最初は川岸に廃材が積まれていて(山の対岸に広がる工業団地となんらかの関係があるのか)その廃材がどんどん積まれて山となり、廃材の上から砂利とか土とかが積もり、その上に雑草が生えて今では幹がしっかりとした木まで数本生えて一人前の小山となっている。そんなことがあるだろうか。マユリは母が運転する車に乗り橋を渡る途中で疑問に思う。廃材が積まれていき山となる、ここまでは理解できても、その上から砂利や土を被せることと、被せた土から立派な木が自然に生えてくる、という二点について納得がいかなかった。廃材の上に、自然に砂利や土が盛られていくとは思えない。人為的にされたなら、理由はなにか。そもそも、山の中身は本当に廃材だっただろうか、今は雑草と木に覆われ周囲の自然と一体化している山の基礎が、確かに廃材だったという確信がない。廃材の山が自然の山になっていく過程の記憶がない。
 橋の開通式の記憶もない。かなり大きくて立派な橋だから、開通式だって盛大に行われたはずだ。六歳のころ、マユリの家の近所に、隣町から引っ越してきた家族が家を建て、骨組みが建ったぐらいでその上に誰かが上って集まった近所の人に和紙に包まれた餅とか小銭とかをばら撒いていた。餅は敷地内で焚き火をしてそこで焼いて食べた。冬だった。開通式だ、餅や金を投げばら撒くぐらいなのだから、開通式にはバルーンぐらいは盛大に飛ばしていただろう。鼓笛隊も駆けつけていたかもしれない。小学生のころ、バルーンに花の種が入った袋をくくりつけて飛ばしたのはマユリではなくマユリの母親だが、母親はそのことを思い出すことはない。マユリの母親が飛ばしたバルーンについていた種は、どこかで花開いたか、マユリもロミもヒルも、花の種が入った袋をくくりつけられたバルーンが飛んできたり道に落ちていたりするのを見たことがない。
 橋の北側を進んだ先にあるお菓子の工場でマユリの母親は働いていて、クリスマスの時期はそこで短期のアルバイトをするのが周辺に住んでいる高校生には慣わしとしてある。クリスマスのデコレーションケーキに載せる苺のヘタをナイフで切り取る流れ作業だ。
 ベルトコンベアーに苺のパックが載せられ、流れてくる。パックごと手に取り中身を点検し、カビが生えている苺がひとつでもあればパックごと青いゴミ箱に捨てる。カビが生えている苺がなければ、パックの中の苺のヘタを全てとり、バッドに並べていく。白い防護服みたいなのを着て、マスクをして帽子を被り、青いビニール手袋をはめ、白いビニールの長靴を履いて、コンクリートの床は少し濡れていて、爪先は氷のように冷たくなり、作業が終わり短期アルバイトスタッフの為に用意された畳の大部屋で私服に着替えるころには、二度とこのバイトはやるまいとみんな心に誓う。マユリはまだお菓子工場でアルバイトをしたことはない。
 橋の南側を進んだ先にあるスーパーやドラッグストアにマユリの家族はよく買い物に行く。南側の高速道路出口周辺の栄えている地帯は、今も栄え続けていて、次々と新しい店ができていく。新しい店がどういう理由ででき、誰がその指示を出しているか、詳しいことはマユリもマユリの家族も誰も分からないのだが、周辺に三つもドラッグストアがあり、来月また新しいドラッグストアができる。ドラッグストアがなぜ橋の南側の地帯に三つもあるのにさらに一つ増えるのか理由を知っている人がいるかもしれないが、その知っている人が誰で、どこにいるのかが分からないし、分かったところでわざわざ訊くようなことでもない。ドラッグストアが増える理由を考えながら、マユリの母親が運転する車が橋を渡る。川岸にできた小山を通り過ぎ、マユリの母親は、小山についてはなんの意見も感想もない。車を運転し小山を通り過ぎ家に着いた、駐車場に車を入れる、自転車がない、マユリはまだ学校にいて、川のことを考えながら気づいたのは、マユリは、母親から、川で遊ぶな、と言われたことがない。家のすぐ裏にある川だから凧揚げをしたり石を投げたり犬や猫を拾い家に連れて帰ったりした。普通、母親なら、子どもが川に行くのが危険で心配で、安全確保のため一人で川に行くことを禁ずるのではないか。マユリは、一人で川に行き、よく遊んだ。川岸に工業団地があるから、大型トラックが頻繁に通過した。マユリは母親や父親とあまり会話をしない。ロミはその話ぶりから、家族と様々な会話をしているのが伺え、そういう子は小学校でも中学校でもいたからうちとは違うとかそういうことを考えることにも慣れていたが、家庭科室のお湯の前でヒルの小野の話から川のことを考え、母親から川に行くなとそういえば言われたことがない、普通の母親なら言うのではないか、だが普通とは一体、と思いを巡らす最中のマユリの後頭部から背骨にかけてのラインには、自分でも温度が分からない隙間風が一筋吹いていく。
 ヒルは死体とか死んだ人とかそんな話ばかりするから、ロミは少し面倒になり、帰りたくなる。マユリはぼうっとしていてヒルの話に相槌は打つが心ここにあらず。偉い人にならなくてもいい、どうか、感じのいい人になってください、というセリフを学園ドラマの教師が言った、ロミの母親はその学園ドラマが好きでそのセリフをそのままロミに伝え、ヒルの話を聞いているロミがそのセリフを思い出しているわけではないが、ロミは笑顔でいたり明るい声を出すのが癖になって感じのいい人に映り、ヒルはどんどん気分が良くなる。
 車に乗っていると、車の窓から見える景色しか見えなくなる。車の内側も見えるけど、そういうことではなく、人間には体があり、目からの視界からでしか見るものが見えない。前を見ているときに頭のうしろは見えない。おかしいと思う。全部が見えるべきだと思う。世界があって今現在も時間も空間もすべてがあるとするのなら見える視界が限定されていることの納得ができない、全部、全てが今、見えるべきであるはずだ。本当は見える方法があるのに、限定されているのではないか、誰かに、わざと。というようなことを盛んに言うヒルの口元を、感じの良い表情をして見ながらロミは、家庭科部の人たちが笑った声や、醤油と砂糖が混ざった匂いを体で感じていた。
 死んだ人の声はある層に混じり合っているし本当はある、だから話そうとすれば本当は話せるのを誰かが隠しているか、隠している自覚もないし、誰か、は、何か、かもしれないというか、その、誰か、も死んだ人ととかに混じり合っているなにか、なのかも。
 わかるー、急にマユリが話に入ってきて、うわ、とロミは声に出さず胸の辺りで息を広げる。
 てかなんでロミにCD貸したん。なんでうちじゃなくてロミなん。確かにロミはおっぱい大きくて顔は左右がちゃんと対称で魚みたいに可愛いけれど、何考えてるかよく分からないしだらしないしポーチの中ぐちゃぐちゃだし上履きあんま洗わないし鼻噛んだティッシュをポケットに入れたりするしトイレしたあと三回に一回は手洗わないよロミは、言うでもなく考えるでもなく、マユリの空間の中に言葉や思いたちがありながら、口の動きと発声でマユリは「ビートルズは聴いたことないけど、親がさだまさしなら聴いてた」。三人の囲むお湯の真ん中にある話には死人からカート・コバーンが拳銃自殺した話からビートルズを聴いたことがあるか、という話に移行していた。
 ビートルズでロミの頭の中にキミカの顔が掠める。キミカを思い出すと、コロッケの山に埋もれているキミカの顔がある。芋のコロッケだ。
 コロッケとキミカが結びつくには、中学の部活中のある日、給食にコロッケが出た日でそのあとの部活でロミはキミカと話していて(二人はテニス部で)、コートの片付けをしているキミカにロミはなにか話しかけようとして呼び止めたのに、なにを話そうとしたのか忘れてしまって、話し出そうとした顔のままロミは凍りつき、キミカは不思議そうな顔をしてロミを見ていて、ロミはたった今話し出そうとしたことを忘れてしまったことが怖かった。キミカは不思議そうな顔のあと困った顔になり、ロミは焦り、とりあえずなにか言わねばと思い「コロッケうまかったね」と言葉にして、わざわざ呼び止めてまで言うことでは全然なかった。ロミが中学校を卒業してキミカと会わなくなって一年は経っていないけど今は冬で、それでもキミカのことをたびたび思い出すのは、コロッケの山にキミカの埋もれた顔があるからだった。
 ジョン・レノンって死んだ人? ロミが言い、死んでるよ、撃たれて、とヒルは父親がビートルズとかザフーとかピンクフロイドとかレッドツェッペリンとかレディオヘッドとかオアシスとかグリーンデイとかのレコードとかCDをたくさん持っていて、そこから適当に取って聴く。カラオケによくヒルは家族で行き、父親はそこでは洋楽でなくユニコーンの服部とかハイロウズの日曜日よりの使者とかを歌う。ヒルは家にあるレコードとかCDとかを気ままに取って聴いているだけだから、ロックの歴史とか仕組みとかを知らないし語れない。その辺にあかるくなれば人に尊敬されたり女子にモテたりする気配があるが、頑張って学ぶほどの気概がヒルにはないというか、ヒルは何かを学ぶとなるとそれが例え好きなことについてでもとたんに無気力になり、なにも分からず先入観なしでいいなあと感じたものを信じたい、というのは言い訳半分本心半分。
 ヒルは父親がカラオケでハイロウズの日曜日よりの使者を歌うのを聴くたびに、胸の辺りがぎゅっと締まり、喉がきつくなる。父親の声、歌詞の内容、曲調、曲を作り演奏していた人たちの気持ち、グリーンガムの匂いがする狭いカラオケボックスで肩を寄せ合う俺たち家族、ドリンクバーの飲み物が入ったグラスの結露、母親が父親の歌に入れる合いの手、妹のあくび、マイクのハウリング、壁紙のボタニカルな柄、細切れの時間の隙間にすっぽりとはまり、あまりに明白に刻まれる目の前や後ろで繰り広げられる光景に息継ぎを忘れ溺れるがごとく、一瞬と永遠の地続きにあるモニターに映る「sha、la、la、la」。父親にも母親にも妹にも友だちにもそのことを言ったことはないというか、伝え方がわからないし伝えたいものの総体も掴めない、分かってほしい気はするが、分からないのに分かったふりをされたくない。母親が歌う「おジャ魔女カーニバル」で家族カラオケは大団円を迎える。
 先々週の土曜日の夜に行われた家族カラオケで父親が歌っている最中、母親が急に子どもの頃の話を始めた。
 私は今(令和五年)四十歳なので三十年前、昭和の終わりから平成の初め辺り、と、このように年代にすると途端にぶよぶよと柔らかだったものがしっかりと固まり、なんだか逆におぼつかないというか、話したいこととかけ離れていくようで、一緒に海水浴に来た父親が、一人泳ぎ出て黒い頭がぐんぐん沖に流れていきその向こうで日が傾きかけていくような感じがあるが、だいたい、令和、というのがまだふわふわの、なにしろまだ五歳なので若く、私が若い時代を過ごした昭和とか平成の方が年数を重ねていてどっしりと安定している。現在と未来はおぼつかないよちよち歩きの赤ちゃんだが、過去はしっかりと固まって文鎮となり強風の中で書き初めもできる、とにかく子どもの頃の話。
 駅は住んでいた町に一つあり、家から歩いて一時間は掛かる。三車両しかない鉄道の、無人改札の手前にある待合所、L字の木のベンチの背に貼られた注意書きには色々書かれていたとは思うが、一つ覚えているのは「死体を運ばないこと」という文言だ。「死体を運ばないこと」という文章がそのまま書かれていたわけではなく、そのような意味の文言が、あとは確か、生ものだか生魚だかを運んではいけないとか、糞尿を運んではいけないとか書かれていた気がするが、定かではない。
 そうか、死体か、と子どもの私は、妙に新鮮な気持ちでその文言を受け止め、固い木の長い箱の中に入った死体が、電車の座席に乗せられているところを想像した。禁止されているのだから、それはあり得ない情景なのだが、想像の中で長くて大きな箱は真っ黒で、本来なら十人ぐらい座れる座席を独占し、箱の正面に座ったり脇に立っている乗客はちら、ちらっと箱に視線をやっている。
 鉄道は、私が住んでいた町から上りに五駅ぐらい進むと栄えている市があって、小学生とか中学生の頃はそこに文房具や洋服を買いに行っていた。小学校五、六年のときにクラスが一緒で仲良くしていた女の子がおしゃれで、どれくらいおしゃれかというと、私たちが小学校五、六年のときというのは一九九三〜四年になるのだけど、その当時、すでに彼女は頭にツノが生えたような髪型をしていて、頭にツノが生えたような髪型というのは、長い髪の毛を脳天で一つに固めて縛って、だからお団子頭のようではあるのだけど、その団子が丸ではなく縦に長い楕円状に作られている。その髪型がどんな風に作られていたのかとか、私も同じような髪型にしたいとか、そういうことは考えなかったけれども、頭にツノが生えたような形状はスタイリッシュで、四つ年上の姉がいるからか服装が大人びていたその彼女にとてもよく似合っていた。それで、その髪型をしていたのは学校に彼女しかいなく、目立っていて、翌年には全国的に、彼女がしていたツノのような髪型が流行した。もちろん、私のクラスメイトだった彼女がその髪型を全国に流行らせたわけではなく、流行に敏感な彼女のアンテナに(ツノのような髪型もアンテナのようだし)引っかかった最先端の髪型を、田舎町に住む私たちの一歩先に彼女が始めたということなのだろう。
 その彼女に誘われて、私は小学校五年生で初めて鉄道に乗り栄えている町に繰り出した。初めて、というのは記憶違いかもしれないが、おしゃれな彼女の髪型の話をしたあとの流れであるから、初めてということにして話を進める。
 そうだ、初めてではない。初めては、小学校四年生でクラスメイト何人かと、栄えている町に映画を観に行ったときだ。ドラえもんの雲の王国を観た。
 母親がヒルとヒルの妹にした以上の話は、父親の歌にかき消されほとんど聞こえなかった。
 死んだ人の歌っている歌はさ、ヒルの耳に言葉が入ってくる。「〈死んだ人がまだ死んでない〉と思いながら聴くことができないね」
 え、と頭の中で言い、ヒルはまずロミの顔を見た。ジョン・レノンの連想から考えていたそっくりそのままの言葉が耳に入り脳に伝わり、自分の上履きの先の汚れに視界をとらわれていたヒルは一瞬、自分が脳で考えていた言葉が脳天からはみ出て自分の耳に届いたのかもしれないと思ったがそんははずはなく、だとしたらロミとマユリのどちらかの口から出たのだ、とヒルは希望的観測としてまずロミを見た。ロミの目はまん丸にまとまりヒルを見返し、だからヒルはマユリの顔を見ると、言葉を出し終えた唇がむず痒そうに動き終わるところだった。
 わ、か、る! ヒルはマユリの顔の前に、へい! と右手のひらを向け、真ん中に座るロミには胸の前すれすれのところをヒルの腕がマユリの顔の前に向かい、ロミは多少の不快感が制服のブレザーの前身頃に広がる。マユリは顔の前にやってきたヒルの手のひらに、ああ、私の発言に対する共感のやつね、へい! と手のひらを手のひらに合わせ、ヒルとマユリの手のひらの間でぱちんと音が鳴った。
 じゃあ、歌うね。しゃららーら、しゃららー、急に歌い出したヒルに、まあ、歌うしかないわな、とロミはスマートフォンをスカートのポケットから取り出しいじり始め、マユリは歌うヒルの制服のズボンの裾と短い靴下の間にあるアキレス腱を見つめ、男の子のアキレス腱てなんでそんなに薄いの危ないよ、そこをホイッチキスでがちゃんと挟む想像にぎゃあとなる。
 出るとき元栓しめてねー。
 声がして、お湯を囲んでいた三人はそちらを見て、お湯はもう少ない、ヤカンの底から二センチぐらいになっているけどヤカンは透明でないので外からは分からない、家庭科室を今しがた出ていった家庭科部の顧問の先生の白い後ろ姿の残像を張り付けた三人はお互いの顔を見合った。家庭科室にいた部員たちは一人もいなくなっていた。
 コンロを切り、ヤカンに残っていたお湯をシンクに捨てヤカンをしまい、ガスの元栓を閉め、を三人は手分けしてやり、元栓をヒルはきっと後から先生が見回るだろうからあえて開いとくかー、と思いながら閉めた。
 廊下に出て、各々教室からコートやらマフラーやらカバンを取り、窓の外は完全に闇に包まれ先が見えない。三人の視線は闇に吸い込まれ、ガラスに反射した蛍光灯の光の下でぼんやりと三つの顔が浮かんでいる。「外が想像していたより暗い」という意味の言葉を三人はそれぞれの語彙と表現で繰り返し言いながら校舎を出て自転車置き場に向かう。
 ヒルとマユリは、そのときの闇の深さを十年後、同じ日ではないがそれぞれに夢で見る。その闇が、高校時代に三人で見た闇だとは気づかないし、ヒルはマユリが、マユリはヒルが、同じ闇の夢を見たことを知らないし、誰にも話さないし、夢の内容もすぐに忘れてしまう。
 ヒルも自転車通学だから自転車に跨る。三人が通う高校は駅から遠く、バスもないので、ほとんどの人が自転車で通学している。六個の車輪は走り出し、壁がオレンジ色のラーメン屋がある角でロミが離れ、二百メートル先の猫を多頭飼いしている家の前でヒルとマユリは別々の方角に車輪を走らせた。

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