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友人、彼方よりの存在(2)<JINMO For my new friends Vol.2>

3. 信用の構造

 まずは、先述した「方法的に生理的欲求を満たすことが可能であると言う確信とその可能性」という、文化のうちに見られる前提条件に舞い戻った上で、再び考察を始めたい。
 この前提条件において、文化のうちにある者には、「未来へ向かう意志」と、その「相互同一性の投射可能性」が生まれることになる。



 「意志」は、意識的であれ無意識的であれ、自ずと未来にあるだろう漠然たるイメージに対して向かう。
 そして人は、未来のイメージを想定するが故に、また未来からの反射(reflection)として、何らかの希望や不安を「心情」として持ってしまうことがある。
 また、未来における自己という期待、言うなれば「自己の未然形のイメージ」を現在にある自己に投射し返すことで、実際とは異なった自己を同一化させてしまうこともある。

 これらの現象は、不確定性への投企とも言える「意志」そのものの性質であり、また志向性として現れるものであるため、完全に「無」にすることは不可能である。
 仮にインド哲学における「知行合一」や「梵我一如」などの「悟り」に達した場合においても、そもそも「生」そのものが志向性を持たざるを得ないため、少なからず近い「未来」への志向性があり、「意志」としての現象がある。
 (無論、インド哲学等においては、志向性をいかに留め置くかという意識の技法でもあるが故に、投企は不確定性そのものの反射として自己を規定するため、「空」なる自己の循環として自己同一性を保つ。)

 以上のように「未来へと向かう意志」は、不確定性への投企と言えるため、結果的に「保証性」を導き出す。

 なぜなら、意志によって上記したような未来という無限個の位置ある期待値との同一性が生まれるために、その「保証性」を希求せざるを得なくなるからである。
 (もちろん、現れない意志は、その期待値を保証する手立てがない。)

 そして、ここにおける「保証性」とは、意志と同じく自己循環するため「信用」という言葉として扱うのが適切であろう。
 「信用」は、そもそも対他的には規定不可能な期待値でありながら、未来という不確定性への投企によって反省的に知らされるものであるため、同時に内省的契約でもある。
(なお、ここで「契約」とするのは、信用そのものが果たされるべき期待値を未来に持つため、また、その成果如何が問われるためである。)

内省的契約としてある対自的な「信用」は、常に行為に先立ちつつ、反省として意識のうちに現れるが故に、必ずしも事実の確認を待つことにはならず、自己循環する。

 また、意識のうちに意志と信用が共にあることで、欲望的自己とも言える、信じたい自己との同一性への希求が生まれるため、意識のうちにおける自己同一性は、必ずしも事実的な自己同一性とは限らなくなる。

 それでいて、信用は、それが循環的な成立要件であるため、自己同一性を保証しようとし続けるが故に、自己肯定感の擁立の一端を担っていると考えられる。

 つまり、これは乱暴な言い方をするならば、ほとんどの場合、自分に対する「信用」とは「思い込み」であることが多く、信用を成立させることは、「思い込み」を成立させるためと原理的には同じであると言える。

 一方で、対他的な面からは、「信用」は単独ではあり得ないため、他者が現れることによって「相互同一性の投射可能性の問題」も生まれ、この問題が反省され共有されるために「承認可能性」がそこに存在することとなる。

 ここで承認可能性は、承認がなくては成立し得ない「友人」の概念に深く関わるため、友人の原理構造を導き出すには、相互同一性の投射可能性を問うべきであると言うことが分かる。

4. 個人と言語ゲーム

 まず、先述した「相互同一性の投射可能性」とは、簡単に言えば「自己や他者がそうであるという事象として認識し合うこと」である。

 上記の通り、そもそも自己同一性や、他性同一性は、個々人の主観においては、事実性に関わらず(事実に基づいていようとも異なっていようとも)、自ずから反省され統合されながらある循環的な感覚として、意識のうちに保持されているものである。

 この相互(自他)同一性は、文化的現象に基づいた歴史性や環境によって、一定の志向性を持つ「主観」として集約されているため、文化のうちにおいては主義的な志向性として留まることになる。

 よって、意識は主観として一定の志向性を表すものとなり、この統合としてある文化もまた「〜的なもの」としてあり、自己規定を繰り返す概念として、認識されることになる。

 そして、この主観の同一性が一定量そこにあり、文化的な概念の範疇に向かいつつあることが反省されることで、一体化された「総体としての志向性(民族)」が現れ、また総体として期待する欲望的想定が届く範疇(文化)のうちにあろうとする意志(民意)によって、文化が暫定的にイメージとして帰結され続けることとなり、共有されうるものとなる。

 以上のように、文化の原理構造が現れることで、文化から反射される自己同一性によって、また反応として現れる主観としての同一性が、共有可能な対象となることが分かる。

 そしてまた、この主観における志向性が異なっておらず、一定の方向性としてあるときに、文化のうちにある場所や共感などの「関係性の総体」となり、友人関係を生む地表となる。

 これらの地表は、主観の同一性とその保証性と、それが相互的に理解される契機となりうるため、コミュニケーションが成り立つことが分かる。

 コミュニケーションという「志向性のやりとり」は、以上のように「信用」を前提とするため、やはり未来への投企という形式を取る。

 そして、この「やりとり」のうちに現れる「志向性」は、各々の欲望や欠乏とは必ずしも直結するのではない「表出」として現れ、一定の方向性としての同一性に還元されることで主観として、また、一定の範囲のうちに他性より把握されることで「意図」ととして捉えられる。

 よって、「意図」は、お互いの事実感や現実感によって反省され、同時に意識によって保持される。

 ただし、志向性として一体化されたものを投げかけ、かつ受け取る本体としての「意識」のほうは、主観や意図から純粋には反省されない。

 意識は、先述したように「錯綜体」とも呼べる誤解や錯覚も含んだ意識の総体であるため、事実性と虚偽、直感性と錯覚、理解性と誤解などが、複雑に入り混じっており、志向性として留め置いたとしても、そのうちにある錯綜性を分節することができない。

 例えば、快楽の原因として、満腹感だけを挙げるのが不適当のように、反省された意識のうちから取り上げられる「総体としての志向性」は、そのうちに複雑性を持つが、その複雑性が志向性としてどこまで保持されうるかによって、意識としての志向性の度合いが変わる、としか言い得ない。

 というのも、場合によっては、志向性のうちに意識が分裂した状態のまま現れることもあり、もし分裂した状態のまま現れ続けてしまえば、思考だけでなく、事実認識や自己同一性や、最悪、身体と意識さえも分裂することがある。

 そのために、意識は、未来への投企として行われる志向性を方向づけている総体ではあるのだが、主観のうちに現れるのではなく、知られるものとしてある。

 またそのために、意識は主観という意図によって、現実世界への自己同一化の投射と反芻を行い続けることでしか、自己同一性を保持し続けることができず、これによってまさに個人たりうる。

 つまり、まさに志向性としての度合いや確証性が、個人の保持となる。


 なお、ここで反芻と言うのは、人は何らかの反応や行為を行うが、それは結果として、どのような現象であっても自己の認識として循環せざるを得なくなるためである。(無論、結果として認識しないという決断や、認識に上らない場合もまた認識の一環である。)

 さて、上記の論理だけでは、まるで人間の意識や認識には整合性や真実性がないかのように見えるため、改めて事実認識について確認しておきたい。

 事実認識について(ベルクソンが非常に厳密な構造を規定したのだが)、あくまで抽出化された現象の一側面という状態でしか、認識における確信性を得ることができない。
 そのため、逆説的に「直観」という方法、つまり、ある事象から本性として異ならない要素を取り上げて、それらを相関的に分析することで、事実を露呈させることができる。

 そもそも認識は、決して完全な一方向性や統一性を持たないため、直観もまた、意識や認識のうち、どこかで判断停止された「宙ぶらり」な認識状態となった状態であり、それがまた事実認識の方法となる。

 このような直観状態においても、人間の認識や意識からは、誤解や錯覚を完全に捨て切ることは、もちろん不可能であるが、直観自体は純度の高い志向性を持つため、直観による相関性をより純化することによって(例えば、数学や物理学のように)事実らしさや真実らしさを形而上的に抜き出すことが可能となる。

 そしてこのとき、本質的として認識される普遍性が生まれ、そして普遍性はまた直観されるのものとして現れる。

 それゆえに、この普遍性は、一般化可能なほどに純化されたものであるのだが、ほとんどの場合、普遍化可能以前の段階にしか、留まれない。
 これは先述した概念の仕組みからも明らかであるが、普遍性が高いものは自ずから術語的性質を帯びてしまうため、常に普遍性の「高み」にありながら、普遍性を得ることが困難になってしまう。

 すると逆説的に、普遍性は、普遍的であることの困難さに常に直面することになる。
 これは言語などのうちにある法則性にも見られ、普遍性における厳密性を求めれば、より普遍性から遠のくという矛盾が発生する。

 そのため、コミュニケーションとは、つねに共有可能なレヴェルの地表を探すと言う「言語(の措定)ゲーム」であると言え、共通了解に至るために普遍性からの意味の「取り返し」を繰り返すことである、とも言えよう。

 そして、先述した通り、以上の理論からも『「概念」としてある言葉は、そのものが多様性を含むがゆえに、その言葉が関係する多様性の帰納として存在しながら、推論されるものとして、自ずから言語的な「普遍性」となり、同時に解釈されるものとして、その意味を覆され続ける事になる。』ことが証明された。

 また、言語ゲームにおいては、言うまでもなく主観的な認識からでは普遍性を得れないため、まず認識するという主体的行為ではなく、認識されるという反応によって開始される「解読」としてしか始まることができない。

 そのため、他者性が存在してはじめて言語ゲームは、可能になる。

 また、言語ゲームは、コミュニケーションとしてあるが故に、各々の既存の歴史性における何らかの反応の連鎖であるが、この連鎖は意識と同じく、確実性に依拠するのではなく、反応の連鎖によって言語の同一性を保障し続けようとする行為でもある。
 (なお、このような言語ゲームの契機となる「第三者の存在」ついては、本著の「禁秘の楽園」にて解説した。)

 そして、言語ゲームにおける一定の了解性は、第三者の存在が現れることによって、個々人から拡大される志向性が重なる範疇(世界観)のみならず、世界(または文化)そのものに対して意味の取り返しを行い続けることであり、ここにおいて世界のうちに場所性共感性が、生まれることとなる。

 そして、この共感性や場所性が、まさに友人(philos)が現れるところとなるのである。

つづく

【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、下記JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】

JINMO +++ For my new friends Vol.2 (ver.4.0) +++

(以下、上記リンク先より引用)
For my new friends Vol.2 (ver.4.0)

2006/03/01 リリース(avantattaque-0004)
2016/12/6Last Update
全16曲 (total. 1:05:30)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaque

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