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友人、彼方よりの存在(3)<JINMO For my new friends Vol.3>

5. 開示

 さて、先に導き出された結論において、場所や共感性から、友人(philos)という関係性が生まれると書いた。

 また、その場所や共感性は、言語ゲームによって、個々人から拡大される志向性が重なる範疇(世界観)や、世界(または文化)そのものに対して「意味の取り返し」を行い続けることで発生する、とも結論づけられた。

 そして、以上の論理より、言語ゲームとして、意味の取り返しが行われるために必要な契機を問い、友人の原理構造に迫りたいと思う。

 まず、意味の取り返しは、言語ゲームにおいて行われるものであるため、ゲームの前提条件として、対象がそのものとして「あらわれる」ことが必要となる。

 対象の「あらわれ」は、旧約聖書でも「光あれ」と言われるように、原則として反射の形態を取り、先述したとおり、観察者の認識や志向性に根拠するものではない。

 また、そもそも「対象そのもの」は捉えられないため、認識においては、どこかで判断を停止(エポケー)する必要があり、これによって現象学等は非常に高い厳密性を持つのであるが、コミュニケーションにおいては、常にどこで判断停止したかを示し合い続けることはできない。

 しかし逆説的に、どこで判断停止をしたかが分かる状態になることによって、厳密性の高いコミュニケーションが可能となると言える。

 コミュニケーションは、一定の法則を基盤とする概念性を含んだ行為によって行われるため、この共有性の度合いは、厳密性を考える場合に問題とならざるを得ない。
 そのため、一定の法則を基盤とする概念性を含んだ行為のうち、対象における「開示」について考えてみたい。

 「開示」とは、そのものの反射と、観察者の認識や志向性の反射によって、対象が「対象そのものであるように思われる」と発見される現象である。

 これは認識する側における判断停止なのではなく、無意識や認識可能性のどこかに対象が認識として留まるということであり、言い換えるならば、「個々人の認識クセ」とも言える。

 そもそも個人というものは、今まで見てきたように、主観においても客観性においても秘匿されざるをえない存在である。

 そのため、多くの場合は、その存在(主体にせよ客体にせよ)は、他性として観察者のうちに、あらわれる。

 もちろん、現象としての個人は、認識対象としての物質的な開示性はあるが、そもそも個人とは、先に結論づけられたように、志向性としての度合いや確証性であるが故、個人は、知られるものとしてしか、あらわれえない。

 また、開示において観察者の認識における志向性が偏っていたとしても、そもそも開示はそう思われるものという認識のクセであるがゆえに、無意識的な判断停止は、多かれ少なかれ存在する事になる。

 それでも、開示は必ず一定の文脈(文化や所作、言語)という法則的基盤のある表現として観察者のうちに現れ、また反省されるため、文脈の正誤にかかわらず、そこには必ず何らかの(存在論的な)真実性が浮かび上がる事になる。

 そして、この真実性こそが了解可能なものであり、その了解性によって、まさに、ある世界観(個々人から拡大される志向性が重なる範疇)へ、自身の志向性を合わせうる事になる。(無論、真実性がないものは、了解されることもできない。)

 そのため、コミュニケーションにおいては、了解性としてそのままの状態を保持するのみならず、了解性に基づいた行為となることによって、自身のうちに他性を包摂する内省的契約となる。

 そして、これがまさに、「つながり」である。

6. Philos

 以上より導き出された、内省的契約による他性の包摂、言うなれば契約的包摂が「つながり」であり、友人(Philos)関係のみならず人間関係の端緒となることが分かる。

 先述した通り、個々人から拡大される志向性が重なる範疇(世界観)や、世界(または文化)そのものに対する「意味の取り返し」によって、共感性が生まれる。

 そのため、契約的包括の拡大可能性とその保証性(信用)が、共感性そのものの「強度」と「量」となり、契約的包摂の循環的成立要件となる。

 共感性の強度とは、端的に言うなれば、ある共感がどのような依存度において個人の生活に根ざしているかの保証性である。
 共感自体は欲望などの志向の相関性によって露になる概念だが、言うまでもなく、欲望そのものの実態は推し量ることしかできない。

 そのため、共感性は、所属する国や地域、家族や仲間、言語や行為、趣味主張など、共感性として生活世界においていかに通底しているかということが、結果的に関係の強度を高めることになる。
 そして、この強度をどれほど他性において保持できるか、という信用が、他性への共感性の強度となり、同時に「契約的包摂」の対象となるかを判断する指標となりうるのである。

 また、共感性の量、これは言うなれば個々人が持つ「リゾーム」と「プラトー」の数、または錯綜体のうちにある繋がり方など、さまざまな相互同一性の内にある関係性と、それらによって顕わになるつながっている量であり、この量と強度によって、自他への依存性が変化する。

 なお、共感の量が多ければ多いほど、関係性の「強度」は結果的に高まるが、それと同時に志向性をも統一化してしまう可能性を秘めるため、一方的な依存性ばかりを高めた場合は、関係性が偏重的となりうる可能性がある。

 また、この偏重性そのものに依存することによって、志向性のうちにある欲望がすり替わってしまい、自己や他者を己の理想のままに投射し合うということも起こりうる。

 これは、契約的包括が、相互同一性から偏重性へと対象をすり替えてしまうことであり、それと同時に共感性の範疇を超え出てしまうが故に、包摂され得ないものとなることである。

 しかしながら、契約的包摂においては、必ずしもその範疇が決まっていないからこそ、契約的包括には法則と同じく、意味の「余白」があると考えることができ、これがまさに「空間性」となって、コミュニケーションや関係性の広がりを支えるものとなる。

 空間性には、大前提として他性を認めるという「承認」が必ず存在するため、これがコミュニケーションにおいては、原則として相互承認の発生を促し、これによって関係的な「余白」の契機となる。

 この時、空間性におけるお互いの開示が、契約的包摂となることによって、反射的に契約的包摂として個々人の規定や限界を措定し続けることになる。

 コミュニケーションは、この規定や限界に到達しない状態の保持であり、また限界のうちに立ち止まることによって連続性を促す。

 そして、この連続性のままにあること、つまり、契約的包摂の無規定のままとしてあること、これが即ち「友人」の原理構造である。

 また、上記「余白」のうちに受け入れられる相互偏見や誤解は、その偏見や誤解(または虚偽など)のために、契約的包摂を解除させるものともなるが、逆に新たに契約的包括を結ぶものともなりえ、ここに契約的包括の無限性がある。

 そして、この契約的包摂の無限性こそが、愛であると言えよう。

 以上のように、友人の原理構造そして契機が詳らかになったと共に、愛の本質すらも導き出せた。
 まさに友とはPhilosなるものであり、無限なる契約的包括のうちに留まるが故に、友人という存在は、他性においても自身においても、彼方より来たるものとしてある。

 ゆえに、「友よ」と呼ぶ言葉に、我々は永遠性すら感じ得るのであろう。

(おわり)

【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、下記JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】

JINMO +++ For my new friends Vol.3 (ver.4.0) +++

(以下、上記リンクより引用)
For my new friends Vol.3 (ver.4.0)

2006/03/01 リリース(avantattaque-0005)
2016/12/6 Last Update
全12曲 (total. 1:01:57)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaque

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