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季語と本意:誰かと世界を分かち合うために

季語には「本意」がある、ということを
知ったのは、いつだろう。
気づいた時にはその言葉と、何となくの意味を知っていた。
多分、句会で覚えたのだと思う。
本意以外にも、文法や切れ、切れ字など、俳句の基本的なことは句会で経験して覚えた。

季語や本意に話を戻すと、私の場合、
季語の把握や表現方法において、
先生の言葉から受けた影響が一番大きい。

「先生が季語をどう捉えているか、
 どう生かしているか」
「季語がその句でどういう役割を
 果たしているか。
 力を放っているのか」

先生の句を読んだり、句会での選評を聞き、それらを栄養に、言語化できないなりに体感的に季語と本意を学んでいったのだと思う。

私が先生の言葉や句会から捉えた本意の印象。

まず、本意は大切なものだということ。
そこには俳句以外の花や画、茶道や能など様々な日本文化に共通するエッセンスがある。
だから本意を踏まえて季語を使用し詠むと、作者も予想できない創造世界へたまに連れてってくれる。

そして、季語。文化と歴史の豊かさが季語の中に満ちているから、歳時記は読んでいて樂しいし、多彩な日本語を見ているだけで、眩くワクワクする。また心休まる。
そんな歳時記だから、季語は自分以外の人と世界を分かち合うための共通用語になりうるということ。ゆえに、歳時記はガイドラインや法律ではない、ということ。

だから、季語とその本意は尊重しても、縛られる必要はないのではないか。

そんな考え方や姿勢を自分なりに育てた気がする。

季語や本意の意味を消して作る。
そんな手法もあるが、それだとなんだか寂しいというか、勿体ない気がする。

また、無季で作る手法もある。
その必要がある場合、私もそうする。
その辺は自分の勘にまかせるというか、
臨機応変でよいと思う。

初学の頃から今まで私が大事にしているのは、現実世界での季語との出会い。
「ああ、これが▲▲という花かぁ」
ファーストインプレッションの衝撃を
生かして作品とし、その後に歳時記で確認し、さらに同じ季語で違う句を作る。
そんな現実での粗掴みと表現用語としての季語との擦り合わせを創作の過程で行ううちに季語は自分のものになっていく。

季語と自分の今、体感を交錯させ、季語を尊重し表現する。
その過程で、自然と季語は作者の作品の中でオリジナリティある表現と存在を獲得するとともに、本意も宿るのではないだろうか。

季語とその本意を勉強するとともに
自分の感覚や直感を大切に。
そうすれば、本意を損なわず、
季語が生きた普遍的な作品が生まれる、と
信じている。

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