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移動時間についての考察

ラオスにいても日本にいても移動時間がとにかく多い。

日本にいるときは、毎日電車で過ごす通勤時間。
八王子の実家から東京駅まで通っていたときは、電車に乗っているだけで片道1時間以上あった。

ラオスにいる時は、日々の通勤は10分のバイク移動だけになったけど、地方に住んでいたので首都に行くことが多かった。多い時は月に2-3回首都に行っていて、そのたびに片道3時間バスに乗っていた。

ラオス国内移動でバス3時間というと短い方で、「首都のビエンチャンから3時間で着くんですよ〜」と、自分の住んでいる場所を説明するときは、そんなちょっとで着きますよというような言い方をしてしまうが、3時間のバス移動というと、すごく短いわけでもない。
(もっと長い移動時間を要する人の方が多かったので、こんなこと言いづらいのだけど、、ね)

毎回バスに乗るたびに、外の景色を見たり、遠くの夕暮れを見たり、近くに座っている人を観察したり、ひたすら音楽を聴いたりする。
エアコンがなく窓を開けっぱなしにするため砂埃が入ってくるのでパソコンは開けないし、酔うので読書やスマホをいじるのもあまりできない。

そうやってできることが限られた状況で何時間も過ごしていると、一種の瞑想状態になる。眠れないことも多いので、ただ無になるか、もしくは何かをボーッと考える。

あの時あの人に言われた言葉、嬉しかったなぁとか、
でも自分はあの人にあんなこと言ってしまって申し訳なかったなぁとか、
次職場に行ったらカウンターパートにこんな提案してみようかなとか、
あの人に久しぶりに連絡してみようかなとか。

家で過ごしている時とは、違う思考回路になる気がする。
人間は、行動が制限されている時の方が色々なことが思いうかぶのかもしれない。

そして、任地から首都までの風景は、とっておきの景色でもある。
ところどころに村があり、そこに住む人たちがご飯を食べていたり、何かを売っていたり、農作業する様子が見えたりするし、村と村の間は、広ーい田んぼだったり、開けた牧草地のようなところだったり、遠くに山が見えたり、空が綺麗だったり。
もう何十回も見てるんだけど、季節によって、時間によってその風景はいつも変わるから、やっぱりなんか、特別な風景なんだよね。ラオスで過ごした時間を思い返す時、あの景色もすごくよみがえってくるから。

移動時間なんて、基本的には無駄なものな気がしてくるけど。
でも、考えをぐっと深めたり、直感的なアイディアを呼び込んだり、誰かのことをいつも以上に考えるために、実はすごく必要な時間なのかもしれない。

また東京での生活が戻ってきて、郊外からの通勤は少し時間を要するものになりそうだけど、時々目をつぶってラオスのバスから見た景色を思い出せば、また誰かのことを大切に思う時間にできる気がする。


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