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日記帳

 小学校1年生の頃、週末になると必ず日記の宿題が出た。週末にあったことを記録するだけのささやかなものだ。友人たちは、家族とどこに出かけただとか、何のおもちゃで遊んだだとかを簡潔に書いていた。私は、弟が生まれたばかりだったり、高校教員の父が部活指導の為に大抵の土日は家にいなかったりと、色々と家庭の事情があり、週末に車で出かけることがほとんどなかった。しかし、友人が羨ましかったのかと聞かれると、そうでもない。小学生の頃の私は、今考えると異常なほど、独特な感性を持っていた。現実の世界が空想の世界とほとんど変わりなかったのだ。校庭は光に満ちていて、中庭は動植物の夢の国のように思えた。あの頃の私には、砂の声も、虫の声も、うさぎの声も、風の声も聴こえた。この歳になって振り返ると完全な患い人だが、例えば、藤棚の下に置いてあった大きな岩をジャンプして渡り歩く時、そのリズムを褒めてくれる声があったし、小さくてふわふわとしたお化けのような、自分にしか見えない友人と草むらを覗いては、ダンゴムシやオオイヌノフグリが語りかけてくるのに興奮していた。そんな感性を持っていたから、近所のお地蔵さんに手を合わせたり、田んぼの淵を歩いたりするだけで、その日1日を素晴らしい日として受け止め、おおよそ近所を散歩していただけとは思えないような長ったらしい日記を毎週書くことができていた。


 その中でも、とてもお気に入りの文章が書けたことがある。確か、内容はこのようなものだったと記憶している。


 ある土曜日の夕方のこと、祖母に、折り紙で蛙を折る方法を教わった。赤い折り紙で作った蛙は、なぜだかずっと一緒にいる友達のように思えた。祖父母の庭は当時よく整備されていて、私の自慢の1つだったが、それまで友人に紹介したことはなかった。庭にはたくさんの植物が植えてある。紫蘭と百日紅は、語感も見目もよく、いっとう気に入っている。私は、赤い蛙にそれらを見せて回った。赤い蛙はとても喜んでいるようだった。母に散歩に行こうと言われた私は、蛙を連れて祖父母の家を出る。ここは○○さんの家だよ、○○さんはおばあちゃんと仲良しなんだよ。この公園では月に1回粗大ごみの回収をするんだよ。(今となっては短い距離だが、祖父母の家の近くに引っ越してきたばかり、それも小学校1年生の私には大冒険と言っていいお散歩コースだ。)母から聞いたことは、私にとってすべて新しいことばかりだ。それは手に持つ赤い蛙も同じだった。赤い蛙は、大冒険を共にする仲間だった。そうこうしているうちに学校につく。私はシーソーで遊びたかったが、もうだいぶ日が傾いた休日の学校にはほとんど人がいなかった。私は赤い蛙と遊ぶことにした。シーソーの片側に赤い蛙を乗せ、自分はもう一方の端に座った。シーソーの傾きは変わらなかったが、赤い蛙は嬉しそうだったので、私も嬉しくなった。中庭ではうさぎと鶏が飼育されていて、池では金魚が泳いでいた。赤い蛙にそれを見せて回っていると、母がそろそろ家に帰るよと言った。家までの帰り道の田んぼは、ちょうど水田の時期で、空の色を綺麗に映していた。私は赤い蛙はその水田に帰るべきだと思った。でも、赤い蛙は私と一緒に居たいと思っているだろう。母との散歩はいつも同じコースだが、赤い蛙がいたから今日はいつもよりも楽しかった。


 実際、その日はいつもよりも楽しかった。だからこうして覚えている。余りにも素敵な1日だった。私は、すばらしい1日を過ごせたことが嬉しくて、わくわくしながら机に向かい、その日の日記をしたためた。宿題は1ページ書けばいいのだが、当然収まるはずもなく、結構長い分量の日記を書いたことを覚えている。我ながら素晴らしい日記が書けたと思った。そんな自分が誇らしいと思えた。月曜日に先生に見せるのが楽しみで仕方がなかった。


 月曜日の朝に日記帳を提出し、その日の国語の時間に返却される。新しい漢字の書き取りの問題集を配る前に、今週の日記でよく書けていた人に自分の日記を音読して貰いましょう、と先生が言った。私は誇らしげに自分のノートを見返した。こんなに素敵な日記なのだから、絶対に自分の名前が呼ばれると確信していた。実際、先生は私の名前を呼んだ。やっぱり、と思い、立ち上がったまではよかったのだが、その時、自分に奇妙な感覚が生まれた。読みたくない、と思ったのだ。この日記は自分の中にとどめておきたい。先生ですら、私の1日のすばらしさを理解してくれていないように思えた。具体的な感情は覚えていない。ただ、この日記は素晴らしいし間違いなく自分がクラスで1番よく書けているだろうけども、絶対に皆の前で発表したくないという気持ちになった。恥ずかしがり屋だったのかと問われるとそうではない。自分の意見を主張するのが比較的好きで、発表の場面では必ず挙手するような性格だった。先生はそれも鑑みて私を指名したはずだ。私は、自分でも自分の感情がよくわからず、立ち尽くした。先生は怒り出し、しまいには私を経たせたまま、漢字の問題集を配り始めた。私がそれを受け取ると、発表はできないのにそれは欲しいんだ、と嫌味を言われたことまで覚えている。(今振り返ると、小学校1年生にこの嫌味は教育者としてどうなのだろう)


 事象Aが起こったとき、観察する人によって、それは事象A1にも事象A2にもなり得る。日記はその人の感性を映し出す鏡である。私が書く日記は、私が観察した世界そのものだった。それを多数の人間に見せたくなかったのがなぜなのか、今の私には知る由もない。ただ、大切で特別だったあの1日は、私がみんなの前でそれを発表できなかったことによって、15年以上経つ今になっても鮮やかなまま、心の中に鈍く突き刺さっている。

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