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反面教師にしていた父との関係

物心ついた時から自分の思いの強さを自覚していた私は、常に自分の欲求や意見をはっきりと周りへ伝えていた。
そんな風に自分の心に従って行動する私のことを母はいつも、わがままで自分勝手と表現していた。
一方で、いつもそこには私の思いを必ず受け止めてくれる父の存在があった。





4人兄弟の二番目、長女として生まれた私は年子の兄が家族や親戚中から可愛がられる中、父親からの愛情を独占していた。
兄は当時、CMに出るほど可愛らしい顔立ちで体もぷっくりとしていて愛らしかった。
ほぼ言葉を発さないというおとなしさも相まって、文字通り誰からも可愛がれていた。
そんな兄とは打って変わって自己主張の強い私。
欲しいものを与えてくれ、したいことを叶えさせてくれる父の存在により、さらにわがままに拍車がかかっていったと母は言う。



やがて2つ下の妹が生まれるも、変わらず父の愛情を独り占めしていた私。
父はいつも優しかった。
当時、父から怒られた記憶は全くない。
ワンオペで育児に励む母に寝かしつけられた後も、父の帰りを階段に座ってこっそりと兄と二人で待っていたのを今でもはっきりと覚えている。
それほど、当時は私も父に対する愛情が強かったのかもしれない。

だがそんな時期もあっという間に過ぎ、小学校、中学校に上がるにつれて父との距離も徐々に広がっていった。



小学校に上がり、初めて家庭以外のコミュニティに属すことで協調性を身につけるようになる。
兄弟はいたけれど、いつも自分がやりたいように自由奔放に振る舞っていた私は協調性のきょの字も知らなかった。
ここで初めて社会の中で生きるということ、我慢することを覚えていく。
”家庭”の外へ飛び出し、外の世界を知る。
他とのつながりを得ることで自然と父離れが始まる。
”コンフォートゾーン”から抜け出し、自分の成長のために学びを得る過程。

そして初めて”いじめ”を目の当たりにもした。
同級生が些細なことで”周りと違うから”という理由で同級生や転校生をバカにし、いじり、仲間外れにする。
その行動の意味がわからなかったし、理解ができなかった。
見ていてとても不愉快で、腹立たしかった。
幸い、当時は教師がちゃんと叱ってくれる時代だったので(体罰もあったが)いじめがエスカレートすることはなく、いじめられていた生徒もちゃんと守られていた。守ってくれる大人が学校にいた。
守ってくれる大人がその場にいないときは、代わりにいじめっ子に食ってかかっていった。



中学校に上がると、思春期真っ盛りな同級生や先輩たちが多くいた。そんな時代。
いわゆる不良と呼ばれる同級生や先輩が多く、校内はそこそこ荒れていた。
いじめどころか生徒が教師を殴ったり、またその逆も然り。
そんなのが日常茶飯事で、窓から机や椅子が降ってくることもあった。

そんな中、小学校でやっていたお遊び感覚の部活動から一転し、コンクールでは毎年東北大会へ出場するほどの強豪校の吹奏楽部へ入部。
私は自分のことで忙しくしていた。
部活は毎日、休みなし。
土日は9時から16時までが基本で、コンクール前の練習となると日付を跨ぐことも何度かあった。

中学3年に上がると所属していたトランペットのパートリーダーに任命され、後輩たちを指導する側に。
一方で、私も毎日のように鬼コーチから指導を受ける日々。
腹筋100回のトレーニングから始まり、腹式呼吸の練習のためにペットボトルを凹ます毎日。
まさに体育会系。
そのへんの運動部より腹筋が割れていたほど。
そして合奏後は決まっていつも、パートリーダーの私だけ鬼コーチから呼び出され、恒例の個別トレーニングを受ける。
今思えば私に対する期待からそうしてくれていたのだと受け止められるが、当時は恐怖でしかなかった。
コーチの足音を聞くだけで背筋が伸びるほどコーチの存在に恐れていた。
今でも叱咤激励の”叱咤”の部分ばかりが記憶に残っている。
そんな毎日を過ごし、肉体的にも精神的にも余裕はなく、食べても食べても痩せていく一方。
母は常に心配し、精神的にも追いやられていた当時の私にどう接していいのか、何と言葉をかけていいのかわからなかったと当時を振り返り言う。

ハードな練習によって”楽しさ”よりも”過酷さ”の方が優っていた、いわば青春時代。
正直、しんどくて泣いたことも何度も何度もあった。
辞めたくて一人風呂場で涙したこともあった。


ーなぜそんなつらい思いまでして、続けられたのだろう。


なぜ?


理由は二つ。

一つは、単純にみんなで創り上げる音、ハーモニーが重なる瞬間が大好きだったから。
日々の練習で個々がそれぞれに磨いた技術を合奏で合わせること、そしてそれがバチっとキマる時、ハーモニーが綺麗に重なる瞬間に感動でいつも鳥肌が立っていた。

幼い頃から音楽が大好きだった私。
音楽によって心を震わせられる度に、音楽のチカラの偉大さを感じていた。

喜びや嬉しさを表現するだけでなく、悲しい時は悲しみを助長し、思い切り感情を感じ切る手助けをしてくれる。
そしてつらい時は心の支えや励みにもなる。
喜怒哀楽、どんな感情とも寄り添ってくれる音楽は私にとってかけがえのない存在だった。

音楽は人の心を動かす。そして豊かにする。
いつも心からそう思っていた。


二つは、部活が自分を常に成長させられる、高められる場であったから。
”今の自分では不充分” ”自分はまだまだ”
そんな風にいつもどこか満たされない思いを抱え、自分に満足できずにいた私にとって自分自身を成長させることは何よりも大事だった。
自分は成長している、どんどん良くなっている、そう感じられる場所が心に欲しかった。

そして自分が努力した結果を実感できるものが欲しかった。
それが当時の私にとって、トランペットという楽器だった。


自分を肯定する場所やその感覚を得るのに必死だったことを振り返り、この頃から自己肯定感を探り探りで高めようとしていた自分がいたことに気付く。
小さな成功体験を積み重ね、自分を好きになろうと必死だった。
自分という存在を認めたかった。
肯定したかった。



ーなぜこれほど自分を認め、肯定したかったのか?


それは当時の家庭環境にあった。
そして、いつも否定ばかりする父の存在。



私が中学生の頃から、両親の喧嘩が頻繁に起こるようになった。

ちょうど思春期真っ只中、親に反抗もするし口答えもする年頃。
自分の感情のコントロールも処理もうまくできなかった。
一方で、学校で起きていることや部活での悩みを相談したくても、それができる環境にいなかった。

家に帰ると両親はいつも喧嘩。
唯一安心感を得たかった家で、”またいつ喧嘩が起こるかわからない”という不安に常に駆られていた。
そして喧嘩が起こる度、部屋に篭りながら喧嘩の内容に耳を澄ませるようになった。
聞きたくないけど、原因が何なのか知りたい。
もしかして、喧嘩の原因は私にあるのではないか。
心の中はいつも自分にとって望ましくない妄想ばかりが膨らむ。

やがて家庭内暴力も起こるようになり、
母が家を飛び出すこともざらにあった。

暴力を振るう父がとにかく許せなかった。
憎くて憎くて、仕方がなかった。

止めたくても止められない、無力な自分に対する嫌悪感も増していく一方。
自分に力があればと何度悔やんで涙したことか。
情けなかった。


喧嘩の原因は何にせよ、とにかく母を救いたい。

母に何度も”離婚してほしい”そう伝えた。
母がこれ以上苦しむ姿を見ていられなかった。
母を助けたい。
母にしあわせでいて欲しい。
それが私の一番の願いだった。


その頃からだった。
父を心の底から憎むようになったのは。


以降、そんな父を反面教師として生きていった。

常に否定的な父の言動を見ては
自分はこうしないようにしよう、
こうならないようにしよう、
こんな生き方はしないようにしよう。

すべてにおいて、父の真逆をいこう。
人として、尊敬できない。


人のことを”嫌い”になることがない私が唯一、初めて嫌いだと認識したのが実の父親だなんて。

幼い頃、あんなに愛情を注いでくれていた父にそんな思いを抱くことがとても悲しかった。



その後しばらくして、私が高校生になった頃には夫婦喧嘩は落ち着いていた。

夫婦間は落ち着けど、私の心は落ち着かないまま。
父との一定の距離を保ちつつ、もはや”自分の父親である”という事実も認めたくなかった。
話をするどころか顔も見たくない。
目も合わせない。

元々無口な父だったが、父との会話はほぼゼロ。
そんな日が数年続いた。

大学進学後も変わらず、
ただの同居人のような生活。

そして社会人になってからも。



そんな中、青森を出てしばらくして福岡のカフェで勤めていた頃、あることに気付いた。



それは、いつも男性の上司や同僚と衝突をしている自分がいたこと。
揉める内容はもちろん仕事のこととはいえ、常に否定から入る自分がいたこと。


ー父と同じじゃん。
 私、全く同じことをしてる。


ショックだった。
あんなに父のようにはなりたくないと心に決めていたにもかかわらず、まるで父のような言動をしている自分がそこにいたこと。

認めたくなかった。
でも、認めざるを得なかった。
認めて、自分が変わらなければ。
そうでないと、周りの人を傷つけてしまう。
対人関係を良くするためにも、自分が変わる必要があることは心でわかっていた。

でも、どうすればいいのかがわからない。
考えれば考えるほど沼にハマっていく。
答えを見出せない。
ただただもがいて、そんな自分がどんどん嫌になっていった。



そんな社会人時代を経てオーストラリアへ渡り、挫折を経験し、帰国。
久しぶりに実家へ戻り、父との生活をスタートさせるもうまくいくわけがない。
だって何も解決していないから。

父と会話はするものの、30歳を超えてまだなお父と喧嘩する日々。
同じ空間にいるのも苦痛だった。



そんな負のループを断ち切ってくれたのが、当時私がコーチングを受けていたときのコーチの存在だった。

セッションで初めて、父との過去や関係性についての悩みを打ち明けた。


「今でも父を許せていないんです。憎いんです。」


そう言う私にコーチは一言。


「でも、今の明るくてポジティブで芯のある菜々さんがあるのは、そのお父さんの存在があったからじゃないですか?」


ハッとした。

続けてコーチはこう言った。


「もし仮に、順風満帆な家庭に育ち、不満一つないお父さんの元で育っていたら、今の菜々さんはいたでしょうか?」



父の存在を認め、受け入れることが
私自身を受け入れ、認める第一歩なのだということを
このとき初めて理解した。


幼い頃、私をありのままに愛し、受け入れてくれていたのはいつも父だった。
私の自尊心は父によって育まれ、満たされていた。
だから父との関係性が悪い今、これまでの人生、その満たされない何かがわからずにずっともがいていたんだ。

職場やプライベートでも、いつも男性と衝突していた理由も腑に落ちた。
生まれて初めて接する男の人が父だったから、いつも否定から入る父と重ねて男性を否定してたんだ。
自分が傷つかないように。
自分を守るために。



それまでずっと憎み、拒絶し続けていた父に対する気持ちが変化していった。


そして数日後のある日、母との対話を通じて父の過去を知った。


父が中学生の頃、父親が不倫をして家を出ていったこと。
その後母親が病気になり、入院。
それ以降、父が一人で唯一の家族であった妹の世話をしていたこと。



苦しかった。
父のつらさをすべて感じることはできなくても。



ーつらかったよね。
 もっと家族と一緒に過ごしたかったよね。
 愛を感じる時間が欲しかったよね。


父への同情が芽生えた。
と同時に、申し訳なさが湧き出た。


私は、父のことを何も知らなかった。
拒絶するばかりで心を閉ざし、知ろうともしなかった。


唯一私が知っていた父に関すること。
それは、お盆やお正月にいつも父の実家へ顔を出すとそこにいたのは父の父親と、再婚相手の女性だった。
子供ながらにその女性が父の実の母親ではないことは感じ取っていた。
でもそれだけしかわからなかった。


当時は私も子供。
夫婦喧嘩や家庭内暴力を目の当たりにしてしまったことで父を理解しようとする気持ちを微塵も持てなかったけれど、今ようやく、こうして父を一人の人間として理解することができた。


父も私と同じ、人間。
悩みもある。
癒せない傷だってある。

みんな何か心に抱えてる。
それぞれに過去がある。


父はきっと、父親として子供たちへどう接すればいいのかわからなかったのかもしれない。
愛し方をわからなかったのかもしれない。

普段の父の姿や態度を見ると合致がいった。
不器用ながらにも、子供達に何かをしたいという気持ちが父の中に多少なりともあるのは感じ取れていた。
それでも父に対する嫌悪感と拒絶感が勝り、父のそんな部分を見ないように、愛情表現を受け取らないようにしていた自分がいたかもしれない。



ー親である以前に、父も一人の人間なんだ。


それが腑に落ちた瞬間、一気に私の中で何かがゆるんでいった。
父だけでなく、母も同様。
親である以前に、一人の人間。


親はこうあるべき。
親なんだからこうするべき。

そんな期待を押し付けて、型に当てはめようとしていた自分がいた。
周りの家庭と比べて、なんでうちの親はこうなんだと、心の奥底で劣等感や怒りを抱きながら親を責めている自分がいた。



親だって、一人の人間だ。
精一杯、毎日を生きている。


それが本当に理解できたとき、
涙が止まらなくなっていた。

感謝の気持ちで溢れた。



ー今まで育ててくれてありがとう。



一生許せない、受け入れられないと思っていた父の存在を、こうして受け入れられる日が来るとは思ってもみなかった。

父と対面して話をしたわけではない。
私の中での気付きが、こころの在り方を変えてくれた。
父に対する見方も、接し方もまるで変わっていった。
以降、父との関係性は徐々に穏やかなものになっていった。


いくら家族でも、自分以外の一人の人間。
そう理解できるようになり、心がうんと軽くなった。

相変わらず否定的な部分は変わらない父。
それでも、そんな父と楽に付き合っていけるようになった。
一人の人間として。


親だから、家族だからといって
必ずしも仲が良く、円満である必要はない。
血が繋がっていても、自分以外は他人。

大切なのは理解しようとする気持ちがあるかどうか。
無理に理解しようとしなくたっていい。
距離を置いたっていい。
逆に離れていた方がお互いにとっていい場合もある。
どんな関係であれ、環境であれ、状況であれ、自分が心地良い距離感を持てばいい。



その後、自分の内側の変化によって外側も変化していくのがわかった。
以前は仕事でもプライベートでも、相手が男性だと高確率で衝突を起こしていた私。
そんな私がもういなくなっていた。
そして以降、私と出逢い関わる男性が穏やかで優しく、協力的な人ばかりになっていた。



自分の内側の変化によって外側が変化する。
新たな気付きだった。


自分の思考が現実を創るとはこういうこと。
こころの在り方が人生を変えるとはこういうこと。

それを実体験した。




そして私は、この過去の経験を通じて自分の中で確となったしあわせの基準がある。

それは、まずは自分がしあわせであること。
誰かを満たす前にまずは自分を満たすということ。

私はよくこれをコップで例える。
自分のコップの中の水が満たされていなければそれを誰かに分け与えたり、満たしてあげたりすることはできない。
自分に必要な水まであげてしまっては自分が疲弊する。
こころもカラダも。


子供たちのためにと離婚に踏み切れず、我慢していた母を見て子供ながらに感じていたことだった。
子供のしあわせの前に自分のしあわせを優先して欲しい。
だって、母が笑顔でしあわせでいることが私にとってのしあわせに繋がるから。

子を持つ親の経験をしたことがないけれど、親を持つ子として理解している。

まずは自分のしあわせが大事だということを。


私はこれをクライアントにも、家族にも、友人にも、自分の大切な人たちへ常に伝えている。


"自分がしあわせであることが
自分の大切な人のしあわせに繋がる"

だから私は、自分のしあわせのために決断して行動してくれるようになってくれることが何よりも嬉しい。

自分のこころを大切にできるのは自分しかいないから。
自分のことをしあわせにできるのも、自分しかいないから。




母に会う度、
"子供たちももう大人になった。だからこれからは自分のために生きて"
"自分のしたいことを自分にさせてあげて"
と伝え続けてきた。

それでも自分がしあわせになることを許可できない母は
"自分が楽をしてると申し訳ない気持ちになる"
"自分を甘やかしているようでご先祖さまに悪い気持ちになる"
ずっとそう言っていた。

そんな風に言っていた母が今では少しずつ、自分のために行動するようになってきて、本当に嬉しい。

ずっと子供を優先し、誰かのために生きてきた母にとって"自分のために生きる"ことは難しいかもしれない。

きっとそんな母にも癒えていない傷がある。

でも、自分のこころの傷は自分にしか癒せない。
少しずつでいい、自分を大切にしていくことでその傷が癒えることを心の底から願っている。


そして父の過去を知ってからは父に対しても、そう願うようになった。




こうして人は、人との関わりの中で自分をより深く知ることができる。
自分以外の誰か(他人)を通して気付きや学びを得て、自己理解を深めていくことができる。

だからこそ私は、私と関わるすべての人にいつも感謝が尽きない。
そして自分を成長させ、高めてくれる”人”に何かを返したいという思いがいつもここにある。



父や家族を含め、これまで私と関わってくれたすべての人へ
そしてこれから関わるすべての人へ


ありがとう。

私も内なる愛と光を誰かに届けていきます。



With love and gratitude













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