【デイアンドナイト】

「善と悪は、どこからやってくるのか。」
この言葉がずっと刺さって、抜けてくれない。この映画を観たあとも。

「愛する家族のいのちが 奪われたとしたら、あなたなら、 どうするだろうか。」
この問いかけには、すぐに答えられるというのに。

【あらすじ】
父が自殺し、実家へ帰った明石幸次(阿部進之介)。
父は大手企業の不正を内部告発したことで死に追いやられ、家族もまた、崩壊寸前であった。
そんな明石に児童養護施設のオーナーを務める男、北村(安藤政信)が手を差し伸べる。
孤児を父親同然に養う傍ら、「子供たちを生かすためなら犯罪をも厭わない。」という道徳観を持ち、正義と犯罪を共存させる北村に魅せられていく明石と、そんな明石を案じる児童養護施設で生活する少女・奈々(清原果耶)。
しかし明石は次第に復讐心に駆られ、善悪の境を見失っていく―。


観よう、観ようと想っても、中々手を出せずにいた。観た後に、絶対に感情を引きずってしまうと分かっていたから。
そしてそれはやっぱり当たっていて、観た後に、なんとも気持ち悪い、胸焼けのような、ざらついた感情が残った。

「正しさ」とは何だろう。
誰かの尊厳を守ること、誰かの暮らしを守ること、誰かの心を守ること。そして同じように、自分の「正義」を突き通すこと。
それがすべて「正しい」はずなのに、誰かにとっての「正義」は、誰かにとっての「悪意」でしかない。
誰かの悲しみの上に誰かの幸せがあって、その幸せの脆さを見せつけられる。

明石が守りたかったものは、恐らく一般的な倫理観で言えば「守られるべきもの」であるはずなのに、
それでも明石の父が行ったリコールは、リコールの結果、職を失う可能性があり、多くの人の生活を脅かすものだった。
私はどちらかといえば明石の境遇に感情移入してしまうが、それでも明石が手を染めたその他の犯罪が、正しかったと聞かれたら、それを肯定することはできない。

明石が父の汚名を晴らすために行った悪。
明石や北村が、児童養護施設を守る為に行った悪。
三宅が多くの社員、会社、自分の家族の為に行った悪。
奈々が気づいてしまった、自身の悪。
そしてそれはすべて、誰かにとっての「善」や「幸せ」に繋がっている。


誰かの「悪」の上に成り立つ「善」は、儚くて脆い。
誰かに守られて、誰かが傷ついて、誰かが泣いている上に成り立つ「善」に気づいたとき、人はその「善」を受けた自分を「悪」だと想ってしまう。
勿論、そんなことにすら気付かず、自身の保身や、自身だけが幸せであることがすべての人間もいて、
「善」と「悪」はいつでも混沌と、濁った水のようにそれぞれの色が混ざり合っていく。

冒頭の問いかけである、「善と悪は、どこからやってくるのか。」の答えは、この映画を見ても分からなかった。
何が「善」で、何が「悪」で、誰が正しく、誰が悪いのか。
私の中に芽生えた、私が想う「善」では、誰かが救えない。それは私以外の誰かの「悪」であると想うと、自身の正義を振りかざすことを戸惑ってしまう。
「善」と「悪」がどこからやってくるか、という答えは分からないけれど、その「自身の正義を振りかざすことへの戸惑い」を与えることが、この映画の本質なのではないかなと想う。

いまはSNSなどでも簡単に、人は人へ正義の鉄槌を下す。
指一本で、たった数十秒で打ち込める文字で、人は自分の正義を振りかざすこともある。
その「正義」によって、誰かが傷つき、誰かがその正しさで傷つくことがあるなんて微塵も思わずに。

ただ、「愛する家族のいのちが 奪われたとしたら、あなたなら、 どうするだろうか。」という問いかけには、私は迷いなく答える。
私の大切な家族のいのちをもし理不尽に奪われたとしたら、私はその相手のいのちだって、迷いなく奪うだろう。
それがどんなに「悪」だったとしても。
それが他の誰かの幸せを奪うことになっても。
…そう考える私に、「正義」を考え、振りかざす権利なんてあるのだろうか。


「正義」は正しい。殺人をはじめとする犯罪は「悪」である。
それは映画を観たあとも、いまも、変わらないはずなのに、私には私の「正義」を、振りかざす腕をあげることができない。
この戸惑いはこのあとも、私の人生につき纏うだろうなと想う。

この映画を観てよかったと想う反面、あまりにも辛くて、あまりにも、自分の視野の、考えの狭さに気づいて、動きだせずにいる。

ぜひ考えてみて欲しい。
愛する家族のいのちが 奪われたとしたら、あなたなら、 どうするだろうか。
そして、「善」と「悪」は、どこからやってくるのだろうか。

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