【ある男】

あなたが何者であっても、愛しいんだって、叫べるだろうか。

【あらすじ】


私が私である、という証明を、私以外の誰ができるのだろうか。
福島の田舎に産まれ、人の少ない小学校に通い、そこそこに酷い中学時代を過ごし、誰かに嫌われることを一番恐れながら、自己顕示欲の強かった高校時代、怖いものしかないのに、目を逸らしていた大学時代……。
それぞれの時代の友人であっても、それを見守ってくれていた両親であっても、私が私であることなんて、どうやって説明ができるのだろう。
どこかで「本当の」私が死んでしまっても、戸籍が残ればそれは生きていることと何も変わらないんじゃないだろうか。

好きな曲がある。
チャットモンチーさんの『Last Love Letter』で、「涙は他人に見られて初めてカタチになるの」という歌詞がとても好きだった。
自分が隠れて泣いたところで、それが誰かに気づかれない限り、泣いた事実も、涙も、いくらでもなかったことになってしまうのなら、
自分にとって他人とは、自分を自分だと自覚させてくれる存在なのだな、と思ったことがある。
それほどまでに、自分以外の誰かの存在は大きい。

でも、この作品はそれすらも覆すような、今隣にいる人を、仲のいい友人を、信じられなくなるような、底冷えする怖さがあった。
あった、のだけれども、それよりもずっと、やはり人は自分一人では生きていけないのだな、ということをまざまざと見せられてしまった。勿論、悪い意味で。いくら自分が真っ当に生きていたとしても、ほんの少し、ほんの少しでも自分と近しい人間が「何か」をしてしまったとき、それは自分にも非難の目が向けられてしまうことがある。
この映画では、ある男…「X」が、自分が犯した罪ではなく、家族が犯した罪のせいで、ずっと首を絞められている。
親が親なら、という呪いで、X自身を否定され続ける。その呪いは周りを侵食して、やがて自分をも侵食していく。
でも、この物語の本質はそこではない。
妻夫木聡さん演じる城戸も同じように、自分が選択した訳ではないあることで苦しめられ、心無い言葉に苦笑いを浮かべることしかできない。
張り付いた笑顔を見透かされ、責められ、自分は自分でしかないのに、そこに紐づくルーツに永遠に絡め取られる。
「自分は自分でしかない」、ということを、どうしたって証明できない苦しみを抱える人間達の物語だ。

親が犯罪者であれば、その子供は白い目で見られる。
親が在日であれば、その子供も「この人は在日か」という目で見られる。
※ここで言いたいのは在日が悪い、という意味合いのことではなく、あくまでも映画と、この感想をわかりやすくする為の表現です。
私は田舎の、凝り固まった常識の中で育ってきたので、若い親の子供が不良になると言われていたし、結婚ができないのは親不孝だといまだに責められる。
そういった些細なことから、この映画の主人公達のように、犯罪や、出生から、自分が抗えないことで、自分自身を否定されてしまう。
存在も、生まれも、名前も、思考も、行動も、それを全て否定されてしまうことが、どれだけ苦しいだろう。
愛すべき自分をなかったことにして、他人の皮をかぶることが、どれだけ苦しいだろう。

誰かと戸籍を交換すること、貰ってしまうこと、それが悪なのはわかる。
でも、私だって何回も思っていた。
「自分以外の誰かになりたい」と。
それは本当にちっぽけな理由だったけれど、あの家の子に産まれていたらだとか、学歴の高い姉弟と比べては、あの二人と家族じゃなかったら、だとか、そんな理由でだって、私は他人の皮をかぶって、眩しく笑える人間になりたいと思ったことだってある。
それとは比べ物にならないほどの苦しみを抱えて生きている人だっているんだろう。
SNSが普及して、何か犯罪を犯した人の顔写真や本名、ご家族の名前まで晒されてしまっていることもある。
それを果たして、「犯罪者だから」「犯罪者の家族だから」という理由で、デジタルタトゥーを残すことが、本当に正しいのか、
正義を振りかざす為のその指を、一度止めて欲しいとすら思う。

世の中には「私は私」という言葉が蔓延しているけれど、本当の意味での「私らしさ」とは何か、
そして隣にいる誰かが、本当に自分の見ている、信じている誰かなのかを改めて考えるキッカケになる映画でした。

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