【ミッドナイトスワン】

観終わってもう数日が経つのに、思い出す度にまだ息が詰まる。
説明のできない不快感のような、嫌悪感のような、それでいてこみ上げてくる愛しさと一緒に、必死に飲み込む。
まだ整理できていない、いまのうちに、書いておきたい。

【あらすじ】
あなたの母になりたい。
陽の当たらない場所で、あたたかな愛が生まれる。

新宿のニューハーフショークラブ<スイートピー>では、メイクしステージ衣装に身を包み働くトランスジェンダーの凪沙(草彅剛)。洋子ママ(田口トモロヲ)が白鳥に扮した凪沙、瑞貴、キャンディ、アキナをステージに呼び込み、今夜もステージは煌びやかだ。

「何みとんじゃ!ぶちまわすど!」
広島のアパートでは、泥酔した母・早織(水川あさみ)が住人に因縁をつけていた。
「何生意気言うとるんなあ!あんたのために働いとるんで!」
なだめようとする一果(服部樹咲)を激しく殴る早織。

心身の葛藤を抱え生きてきたある日、凪沙の元に、故郷の広島から親戚の娘・一果が預けられる。
「好きで預かるんじゃないから。言っとくけど、わたし子供嫌いなの」
叔父だと思い訪ねてきた一果は凪沙の姿を見て戸惑うが、二人の奇妙な生活が始まる。
凪沙を中傷したクラスの男子に一果がイスを投げつけ、凪沙は学校から呼び出しを受ける。
「言っとくけどあんたが学校でなにをしようと、グレようとどうでもいいんだけどさ、私に迷惑かけないでください。学校とか、謝りにとか絶対行かないって先生に言っといて」
バレエ教室の前を通りかかった一果はバレエの先生・実花(真飛聖)に呼び止められ、後日バレエレッスンに参加することになる。

バレエの月謝を払うために凪沙に内緒で、友人の薦めで違法なバイトをし、警察に保護される一果。
「うちらみたいなんは、ずっとひとりで生きて行かなきゃいけんけえ…強うならんといかんで」
凪沙は、家庭環境を中傷され傷つく一果を優しく慰める。
やがて、バレリーナとしての一果の才能を知らされた凪沙は一果の為に生きようとする。
そこには「母になりたい」という思いが芽生えていた。




この作品は、絶対に舞台である新宿で観ようと決めていた。絶対にこの街で観たいと、そういうゲン担ぎのようなことを、わたしはよくしてしまう。
映画を観終わったあと、わたしは足早にスクリーンを出て、涙で歪む視界のまま、外に飛び出した。
そして米津玄師さんのlemonを聴きながら、そのまま新宿の夜を一時間程歩いていた、今度こそ、涙は流したままで。

映画の中で、目に焼き付く色がいくつかあった。
深いくらいの赤と、眩しすぎる白、それから、ラメが反射するブルー。
特に、凪沙の瞼で輝いていたブルーのアイシャドウは、それはそれは、この作品の中で一番に綺麗だったと想う。
ゆっくりと凪沙が瞬きするたびに、そのアイシャドウは音を立てるように輝いて、わたしはそのあまりの輝きに、涙が出そうになった。

いろんな伏線が張り巡らされいて、かなりリアルに描かれているところもあれば、ぼんやりと、恐らくは受け取り側のこちらが考えて答えを産み出すべき描写もあったりして、それが怒濤のように訪れる。
凪沙が履いている靴が、記憶している限り赤いヒールだったのは、キンキーブーツのオマージュだろうか、だとか。
だから、何か一つ書くにしてもそれはすべてネタバレに繋がりもするし、伏線の答えだったりするので、なかなか「このシーンが」「この終わり方が」と説明するのが難しい。
ただ、全体を通して思ったことは、日々、恐らく生きている限り、自分の身の回りには、こうした、耳を塞いで、目を瞑って、「知らないこと」としていることがあるはずで、
それを改めて、目の前に突き付けられて、スクリーンから得る「理不尽」「不条理」「孤独」…なんだか言葉にしてしまうと陳腐な、そういったものので殴られ続ける約2時間だ。


「見ないでよ」
と、凪沙が言った。見ないで、なんでわたしばっかり、と。
「女性」になりたかった凪沙が、「母」になりたいと願う先で、「母」の形は様々あるはずなのに、それでも、凪沙の求めた姿は、どうしようもなく「女性」だったのだなと想う。
性自認が一致している私には、到底想像もつかない深さで、凪沙は「母」に、「女性」になりたいと願う先の、その時々の姿が痛々しい。
体を売ることができない姿も、髪の毛を切って、きらびやかな衣装から別の「衣装」(衣装ではないが、私は、これをあえて衣装と言いたい)に身を包んで、
消えないマジックペンで名前を書いたその姿も、赤いブラジャーとワンピースを纏った姿になっても、
凪沙は凪沙が想う「女性」にも「母」にもなれず、それなのに、実花に不意に呼ばれた「お母さん」、に対して、
「だってあなた、いまお母さんって」と微笑んだ、普段よりも化粧っ気のないその笑顔こそが、何よりも美しかった。


私が高校生の頃、はじめて『ジェンダー』というものを意識した。
トランスジェンダー、性同一性障害の先輩がいて、レズビアン、ゲイのカップルがいて、彼らはこっそりと、息を潜めるように生活をしていた。
こっそり「実はね」と、彼らは私にそれである、という秘密を明かしてくれたけれど、その当時の私は「なぜそれは隠すことなのか?」というシンプルな疑問すら抱いていた。
ただ、その秘密を知ったからこそ、改めて「これはマジョリティではない」ということ、そしてそのマイノリティは、後ろ指をさされ、マジョリティ側“身勝手な”常識から外れているものだとされるのだなと知った。
当事者でもないくせに、私はそれに憤慨をしていたし、憤慨する私を「そういうのもなんだよ」と諭す彼らの笑顔が、いまも頭にこびりついている。
ちなみに、いまも「そういうもの」だなんて、一ミリも想えない。

凪沙が抱えている問題と、それを取り巻く環境、そして一果が受けたネグレクト…だったり、それぞれの、個々の苦しさは渦になって、出口のない、答えのない、それでいてどうしようもないものとして淘汰されそうになる。
それでも、凪沙が一果の髪の毛を撫でる手つきは優しいことに、私はぐっときてしまう。
どんなに苦しくても、蔑まれても、自分が想う自分になれなくても、凪沙が一果の髪の毛を、頬を、肩を撫でる手はいつだって優しい。
それだけが、多分、恐らく、この世界の中の唯一の、嘘偽りも、虚構も、強がりも、ただひとつの。(適切な言葉が見当たらないので、思いついたら追記します)


ここまで書いて、何度も読み返して、でも、本当にやっぱり何も書けない。
なんて汚い、自分勝手な感想なんだろう、と想いつつ、結局私にはこの程度しか、この世界も、映画も、理解できていないんだろうな。

このnoteはふと思い立ったときに、随時更新していきます。
まだ書きたいことが多すぎる、のに、言葉が見つからないので。




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