【Coda コーダ あいのうた】

誰かの為に生きる自分も、自分の為に生きる自分も、すべて本当なのに。


【あらすじ】
豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。
陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。
新学期、秘かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門音楽大学の受験を強く勧める。
だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業の方が大事だと大反対。
悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。


この映画をみて、最初にわたしが想ったことは、「五体満足で、目が見えて、音が聞こえて、声が出せて、よかった」だった。
素直に、どうしてもそう想ってしまった。
それがどんな造形をしていたとしても、そのすべてが揃っている自分でよかったと、安堵のため息をついた。そんな自分が、とても嫌いだった。

スクリーンに映る世界の色が眩しい。
わたしが好きな、埃や光が綺麗な映画ではないはずなのに、世界の色は鮮やかで、息をしていた。
ルビーのいる世界は、こんなにも色と音に溢れている。

話が進むにつれて、ずっと喉につっかえる違和感。
「家族」という唯一無二の絆は、どうしたってルビーにとっても愛しいものなのに、それはいつの間にか鉛になって、走り出すための彼女の足を重くさせる。
産まれてきた環境も、両親も、場所も、わたし達は意図して選択することができない。
だからこそ、その環境の中でうまく生きていく術を身に着けていくし、そのコミュニティの中で協力することがいかに大切かもわかる。
そして時にはその環境が、状態が、ハンデになることも往々にしてある。
それでも、わたし達は、わたしは、ルビーは、どうしたって「個人」なのだ。
家族の為に生きていかなければ「ならない」なんて、誰に決められたわけでもないのに、「そうであるべき」があまりにしっくりくる環境は、どれだけ真綿で首を締めるように苦しいだろう。

わたしは小学生の頃、なぜか人はみんな、高校を卒業したら大学に入学して、そのタイミングでひとり暮らしをするものだと勝手に思い込んでいた。
勿論、それは間違いであることに途中で気づいたものの、どこかで「自分は大学に行くんだ、そのタイミングでひとり暮らしをするんだ」という気持ちがあって、それは実際に叶えることができた。
でもそれはわたしの努力はたったの1割で、他は家族のサポートがあってのことだ。…当時のわたしは、そんなことに一ミリも気づけていなかったけれど。

「自分が好きなようにやりなさい。ただし、責任はあなたのものだから」
と、母はよく言っていた。
高校受験は口酸っぱく小言を言っていた母も、大学を決めるタイミングと、就職して以降は基本わたしがしたいように、その決めたことに対して、何か大きく文句を言うことはなかった。
それでも時々、「あなたは保育士に向いていたのに」「手先も器用だし、美容師とかもよかったんじゃない」「どこでもやっていけるように、看護師さんとかもよかった」なんて、そんな言葉をかけられることもあった。
そういったものに従わなくても、母は「責任」を持つのであれば、といつも背中を押してくれている。

それはわたし以外の、2人の姉弟に関してもそうだ。
わたし達姉弟は、全員大学進学のタイミングで家を出た。両親からしたら、一人くらいは家にいてほしかっただろうなと、いまになって想う。
それでも、わたしは家に残って、何もない場所で、ずっと同じ毎日を過ごすなんて、考えられなかった。
その後、父が亡くなって、母と祖母だけが実家に残されたとき、誰かはきっと実家に戻ったほうがいい、と、姉弟が全員想っていたと想う。
そのタイミングで、わたしは実家に戻る選択肢を選ぶことができなかった。できたはずなのに、それはできなかった。
まだ掴んだばかりの仕事や環境を、「東京で働く」という夢を、手放すことはできなかった。
代わりに姉が実家に戻ることを選択してくれたけれど、それはいまでも、姉の何かを犠牲にしてしまっているのではないかと、どこかで後ろ髪をひかれる想いがある。


映画を見ている中で、涙がじんわりと浮かぶ。
それこそ、ルビー達が生活の拠点をおく海のような、塩度の高い涙が、じんわりと下瞼を濡らす。
その中で一番最初に涙が溢れたのは、顧問の先生の家でのレッスン中、「怪物になれ」と言われ、初めて自分を解放して歌を歌ったルビーの姿をみた瞬間だった。
いつだって彼女は言いたいことを、叫びを、声には出さず、ぐっと飲みこむ。飲み込んだ先で、唯一すべてを曝け出せる家族に対しても、手話で伝えるしかない。
わたしが健聴者だから、という偏見を前提にしてしまうけれど、言葉で、声で伝える情報量と、手話で伝える情報量はどのくらいの差があるんだろう。
声色、という言葉があるように、ちょっとしたニュアンスを伝えるのだって、それはすごく大切なエッセンスだ。
話すことが、声を出すことが、伝えることができるのに、それをしてこなかったルビーの、「怪物のような声」に、わたしは色を見て、涙が零れてしまった。


もうひとつ、家族の話をしたい。
わたしの叔母(母の姉)は、難聴者だ。でも全く聞こえないわけではなく、大きな声を出して、ゆっくりと話すことで、聞き取ることも理解することもできるし、わたし達と話すときはしっかりと自分の声で話してくれる。
それでも、幼かった頃、どうしても「聞こえない」ことがいまいち理解できない(つい頭から意識がなくなってしまう)とき、
「ねえ聞いてる!?」と、別の部屋から呼び続けてしまったことがある。
そのときの従弟(叔母の息子)の顔は、一生頭から離れない。
蔑むような、憐れむような、軽蔑していたあの目を、いまでも時々思い出す。
従弟とはいまでも仲がいいし、その一瞬のできごとだったけれど、難聴者を家族に持つ彼もまた、「自分が家族を守る」という意識がずっと当たり前に染みついていたのかな、と、映画を見た後にふと想った。
そしてそれと同時に、いまは手話を使いこなしているけれど、それを覚えるまでにどれほど大変だったのだろう、と、想像に難くない。


ルビーが手にした未来は、まだ成功するか失敗するか、それはわからない。
高校生の彼女の選択はまだまだこれからも続いて、そのたびにまた、「家族」をとるか、「夢」をとるか、悩むこともあるんだろう。
それでも、「家族のために自分を犠牲にするな」と怒鳴りつける兄と、聞こえない歌を、それでも確実に「聞いて」くれる父親と、「あなたの耳が聞こえなかったらよかったのに」と言って、それでも彼女の気持ちに寄り添う母親が、きっとそのたびに彼女に送る、無言のエールが聞こえる。

わたしは、たったひとりだ。この世界で唯一無二の、わたし自身の選択を決められる人間だ。
そしてルビーも、これを読んでいるあなたも。
その選択に後悔がないように、どうかその背中を押す人が、言葉が、歌が、あなたのまわりにも溢れていますように。

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