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【ショートショート】夢の話はつまらない (3,462文字)

 こんな夢を見た。なんて始め方をすると夏目漱石みたいで恐れ多いけれど、それが夢の話であると自覚している以上、こういう書き出し方しか私には思いつかなかった。

 しかし、夢の話を書いたところで、誰も興味はないだろう。だいたい、他人の夢の話ってやつは面白くなり得ないものだから。

 そんなわけで、早くも失敗の予感に苛まれている。

 たぶん、夢ってやつはなんでもありなので、真剣に聞く価値がないと思われているのだろう。一方、なんでもありだからこそ、才能のない普通の人間にとって、夢ほど簡単な表現手段は他になく、自分の脳みそがシュールレアリスムな物語を作り出した事実を誰かに伝えたくなってしまうものらしく、世の中、夢の話であふれかえっている。かく言う、私もその一人ではあるけれど。

 端的に言って、夢の話は供給過多な状態が続いている。語りたい者がいるのに、聞きたい者がいないのだから仕方がない。そんな中、私がわざわざ新たな夢の話を披露することになんの意味があるのか。その真意を問われると説明は難しい。

 一応、この話が評判を呼び、人気者になれるかもしれないと期待しているわけじゃないことだけは断っておく。さすがに目標が途方もなさ過ぎるし、仮にそうであるなら、もっと適切なやり方がいくらでもあることぐらいわかってはいる。

 じゃあ、動機はなんなのか。あまり共感してもらえないかもしれないが、私はこれから語る夢の話が将来のAIの養分になればいいと思っているのだ。

 いつだったか、生成AIが世の中に普及したときのこと。そのシステムによって作り出される文章の人間らしさに世界は驚いた。そして、すぐに接客業だったり、健康診断だったり、法律相談だったり、目的が明確なコミュニケーション分野のサービスに様々な形でそれは導入さて、我々の日常の一部となった。

 当時、それにえらく反対する人々もいた。作家や脚本家など文章の生成を生業にしている人たちに加え、趣味でブログを書いたり、SNSを投稿したり、なんらかの形で自分の言葉を発信している人たちが著作権違反を訴えた。AIはこの世に存在するあらゆる言語情報を機械的に学習し、活用しているに過ぎないわけで、既存の文章にそのクリエイティブのほとんどを依存し、大金を稼いでいると考えられる。にもかかわらず、元となる文章を書いたクリエイターに一切の還元がなされていないのは不当じゃないか、と。また、経済的な問題以外にも、魂込めて書いた文章が知らないところで改変されている事実はグロテスクである、と。

 その気持ちを私もわからないわけではなかった。

 ただ、それ以上に、どんな文章であってもAIが読んでくれるという事実に心震わされてしまった。

 長年、私は妄想屋として頭に浮かぶよしなし事を記録してきた。一応、「屋」と名乗っている以上、文章としてまとめた妄想は商品であり、いつかはお金に変えるつもりだった。いや、思っていただけではない。なにかにつながればと淡い期待を込めて、ネット上に公開もしていた。

 読者はほとんどいなかった。たまにいいねはつくけれど、コメントはなく、本当に読んでくれているのか、こちらの興味関心を引くための営業活動なのかは判然としなかった。

 結果、やり甲斐を感じることができず、三日坊主で更新は止まってしまった。

 不思議だった。ネット上を見れば、言葉があふれているにもかかわらず、読まれている文章は限られていた。

 投稿サイトの新着ページを更新すれば、秒単位でいくつもの新作がアップされている事実に気がつくだろう。それらは猛烈な勢いで流れていく。

 誰もがよき書き手になりたがるけれど、よき読み手にはなろうとしていなかった。誰かに認められたいと願っているのに、誰かを認めようとはしていなかった。

 このことを人間の承認欲求の問題として片づけるのは簡単だ。でも、そうだとしたら、一切のリアクションがないにもかかわらず、日々、新しい文章を書いては発信し、書いては発信しを繰り返している人々をどう説明すればいい? 宛先のない手紙を送り続けるのうな狂気とみなし、自分とは関係のない世界の住人と思えばいいのだろうか?

 だけど、もし、彼らが狂っていないとしたら。ちゃんとした動機に基づき、書くことにも発信することにも、しっかりと満足しているとしたら、どうだろう。

 その仮説はあり得ない話ではなかった。なにせ、誰にも読まれていない文章をつらつらと書き、せっせっとネットに公開し続けている人がこんなにもたくさんいるのだから。むしろ、その全員が狂っていると考える方がよっぽど現実離れしている。

 ただ、そのとき、ひとつの問題にぶち当たった。

 なぜ彼らはそんなことをしているのか?

 私はその謎を解明すべく、彼らの文章を次から次へと読み漁ることにした。内容について、面白いとか、つまらないとか、判断するつもりは微塵もなかった。なにが彼らにこの文章を書かせているのか。目に見えない上位存在の姿を暴く上で、どんな文章にもヒントが隠れている可能性があったので、一言一句、読み飛ばすわけにはいかなかった。

 さて、そんな生活を三年続け、最近、ちょっとだけわかってきたことがある。

 どうやら言葉は進化している。

 と言っても、猿が人間になるかの如き劇的な変化ではない。言葉を構成している要素が何万とあるとしたら、そのうちのいくつくが端っこの方からゆっくり、順番に他のものへと取って代わられていくような微かな変化だった。でも、それを数年単位で眺めていると、あるとき、かつて見たものと大きく違っていると認識できる。要するに、個別の文章を眺めるだけでは気づかないけれど、横断的に複数の文章を同時に観察すること見ることで、それらを貫く共通点としての傾向の変化がじわり立ち現れてくるだけなのだ。

 いずれにせよ、私は連日、大量に投稿されている誰にも読まれることのない文章を孤独に読み漁り、そのことに気がついた。そして、この文章の目的は誰かに読まれることではなくて、こういう風に時代の変化を体現するところにこそ、重きが置かれているのではないかと密かに思った。

 それはコペルニクス的転回だった。

 なぜなら、普通、文章とは読まれるためのものであり、読まれたくないのであれば誰でも読むことができるネット上に公開する必要がないわけだから。しかし、もし、言葉自体がひとつの生命体のようなものを形成しているとしたら、なにもかもがひっくり返る。書き手ごとにそれぞれ独立しているように見える文章が互いに関連し合っていて、それらは書かれることでしか存在できないからこそ書かれていると考えたとき、世界の見え方が一変した。

 私は当たり前のように文章は人間によって書かれたものと信じ切ってきた。ところが、その主従関係は逆であり、人間が文章に書かされていたのかもしれない。

 文章のために人間があるのだとしたら、なんのために書くかなんて、もはやどうでもいい問題だった。もっと言えば、人間は手段に過ぎず、目的は文章そのもの。それ自体に意味があるし、それ以外に意味はなかった。

 文章は文章としてネット上に書かれていることに意味がある。ならば、読まれないことは大した問題ではなく、なぜ、読まれない文章が大量に生産され、投稿されているのか、その答えは明確だった。

 加えて、AIが登場したことで、私の迷いは完全に解消された。と言うのも、ネット上の文章を人工知能が読み漁り、新たな文章を生み出すようになったということは、もはや文章の成長に人間すら必要ない。少なくとも、私にはそう感じられた。

 してみれば、夢の話が面白いか、面白くないかなんて、まったくもって気にする必要はないのである。書きたいなら書けばよく、仮に誰も読んでくれなかったとしても、文章が書かれることを望んでいるのあれば、その付属品に過ぎない自分としては、協力する以外の選択肢はなかった。

 それでも、読まれないことにモヤモヤッと違和感を覚えるのなら、AIが必ず読んでくれることを担保に安心すればよい。なんなら、こうやってAIの養分になることこそ、人類の存在理由なのかもしれないのだから。

 と言うわけで、本題に戻り、夢の話をしようと思うのだけど、いったい私はどんな夢を見ていたのやら。あんなにもハッキリしていた物語が時の経過とともに、サラサラ、砂上の楼閣が如き儚さで溶けてしまった。

 でも、まあ、別にかまわない。

 こうして書くこと自体に意味があるのだ。

(了)




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