見出し画像

言葉と行動に曖昧さなんて1ミリもいらない


手紙は、その人の想いが1番伝わる最高のツールである。


私はこの「手紙」というものを通して、

「手紙」というものの偉大さと、

手書きで伝えるという行為そのものが
人の心に及ぼす影響、

そして、
何年一緒にいても、
いや、
何年も一緒にいるからこそ、

定期的に、自分の想いを、自分の大切な人に向けて、素直な言葉で伝えることの大切さを知ったのだった。



noteの更新ができていない間、嬉しいことがたくさんあった。

その中でも特に嬉しかったことのひとつが、

友達の23歳の誕生日に、私が送った手紙を読んだ友達から泣きながら思いっきり抱きしめられたことだ。

誰かに、こんなにも嬉しそうにハグされたのはいつぶりだっただろう。

ふと、そんなことを考えながら、

手紙を送った側なのに、
私の方がなぜか嬉しくなって心が温かくなり、
私もその好意に応えるように強く抱きしめ返した。


そんな金曜夜のお話。


その日は友達の誕生日サプライズを予定していて、前日のお昼にプレゼントを買いに百貨店へ向かっていた。

色々とプレゼントを探す中で、
誕生日プレゼントで何をプレゼントしたら1番喜んでもらえるかと考えた時、
真っ先に思い浮かんだのがお手紙だった。

シンプルな生成り色の封筒の後ろに、
少々臭めな「愛をこめて」という文字を付けて、

A4のコピー用紙3枚にまあまあ大きな字で綴ったなんとも簡素な手紙を送ったのだが、
(なぜかその日の筆ノリが良く、字が綺麗に見えたのと自由に素直な気持ちが書けそうな気がしたという理由から)

友達の、
涙でぐちゃぐちゃになった顔と同時に見せた
嬉しそうな満面の笑み、
そしてその後私のもとに駆け寄り、
ギュッと強く抱きしめてくれたあのホッコリする温かい感覚を感じた時、

ふと、

今日のこと、私たぶん死ぬまで忘れないだろうなあ、と思った。

と同時に、なんかたぶんこの感覚絶対忘れちゃダメだなあとも思った。




彼女との出会いはTwitterのDMだった。

今考えると非常に現代的で、ある意味危ない出会い方でもあったなあとも思ったりするが、

あの時の私は上京したてでまだ友達がほとんどいなかったこともあり、彼女からDMがとても嬉しかったことを覚えている。

そしてまた、

彼女との出会いがなければ今の私はこんなにも多くの友達に巡り会うことはできなかったかもしれないと思う程、

今考えると彼女を通して知り合い仲良くなった友人は非常に多い。

明るくて、優しくて、ちゃんと自分を持っていて、大事な人をちゃんと大切できる人。

私は、彼女のそういうところが人としてとても好きで、

そしてまた、

そういった部分を、出会った頃からずっと尊敬している。

彼女と知り合って今年で5年目に突入し、

これも何かの良い機会かもしれないと、

いつも一緒にいてくれる感謝の気持ちも込めて
今回手紙を書いた。

意外にも、手紙を書き始めると、思っていた以上にすらすらと自分の素直な感情がたくさん出てきて気づいたら朝を迎えていた。

普段自分にも他人にも天邪鬼で、
いつもなかなか素直になれないからこそ、
何かを伝えるツールとして、
手紙の方が私には案外向いているのかもしれないと思った。


そして深夜テンションで書き切った私は、その夜プレゼントと共に手紙を渡した。


正直、手紙を書くのは恥ずかしいし、照れくさい。

ましてや仲良くなればなるほど、一緒にいることが当たり前となって感謝を伝える機会は少ない。

でも今回、私の手紙でこんなにも号泣してくれた彼女を見て、

言葉で伝えることの大切さを再確認した。

と同時に、
言葉と行動に曖昧さなんて一ミリもいらないなと思った。

素直な感情と真っ直ぐな言葉ほど、

人の心に届くものはないし、人の感情を変えられるものはないとも思った。

こんなにも最高な友人に出会えたこと、

私は心から嬉しく思った。


友人、家族、知り合いにこのnoteの存在は明かしていないし、

これからも明かすつもりはないが、

いつか、私のために泣いてくれたこの最高な友人が、
この記事を見てくれたら嬉しいなあと思う。

ありがとう。私のために泣いてくれて。


※写真は引用。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?