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24 ブッダガヤ復興運動の開始 世界仏教徒の共同事業|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇


この地に留まれ、そしてこの聖地に奉仕せよ

最初の来日から一年後の一八九〇(明治二十三)年末、二十九歳のダルマパーラは釈興然(グナラタナ)・徳沢智恵蔵の二人の日本人を伴って、南インド・アディヤールで開かれた神智学協会の年次総会に出席した。ここでの徳沢智恵蔵の演説が日本で物議を醸したのは前述したとおり。翌年一月十二日、ダルマパーラ・興然・徳沢の三人は、インド北部の仏蹟を視察する旅に赴いた。釈興然にすれば、インド仏蹟視察はその師雲照から託された大きな使命であった。

一行三人はボンベイからインドを北上、ベナレス(ヴァーラーナシー)を経て二十一日にビハール州ガヤ市に着き、翌早朝、ガヤーから南方八キロメートルの場所にあるブッダガヤ大菩提寺に参拝した。いまから約二千五百年前、釈尊がその地で悟りを得たという、まさに仏教の根本聖地である。ダルマパーラの日記に曰く、

(ガヤーから)六マイルのドライブの後、われわれはこの聖地に到着した。一マイル以内のここかしこに、あなた方は我らが偉大なブッダの壊れた像などが散乱しているのを見るだろう。マハンタの寺院の入口柱廊の両側には、瞑想するブッダの像、説法するブッダの像がある。なんと高貴であることか! 聖なるお寺……王座にすわった救い主と、周囲に浸透した大いなる尊厳さとは、敬虔な信者の心を悲しましめる。何と喜ばしきことか! 額を金剛座につけるや否、突然の衝動が心に拡がり、私をうながした。『この地に留まれ、そしてこの聖地に奉仕せよ。あまりに神聖な、世界に比類なき、サキヤ・シンハ王子が菩提樹の下で悟りを成就したこの地に』……その時、私は興然師に彼が私と共に留まってくれるかと訊ねた。彼は嬉しげに同意した。それだけでなく、彼も同じことを考えていたのだ。二人は、何人かの仏教僧がこの寺院を管理するためにやってくるまで、ここに留まろうと、厳かに約束した。

〝Flame in Darkness〟p60

ダルマパーラは仏陀成道の聖地に立ち、そこで自らが生涯を賭けて取り組むべき事業を見出したのだ。ベナレスに留学して婆羅門哲学を学ぶことが目的だった徳沢智恵蔵は翌日ガヤーを発ったが、興然とダルマパーラは大菩提寺近くにあるビルマ・レストハウス(ビルマのミンドン王が一八七五年頃に建立した)に腰を据えた。そしてスリランカ、ビルマ、インドそして日本などの仏教関係者に向けて、聖地の荒廃とその復興の必要性について綿々と綴った書簡を送りつけた*55。

ブッダガヤと神権領主マハンタ

釈迦牟尼仏陀の死後、仏教の根本聖地とされたブッダガヤ(ボードガヤー)には西暦五〜六世紀グプタ朝時代、現在ブッダガヤにそびえる大塔の原型が作られた。その後仏教の衰微とイスラム教徒による破壊を経て、ブッダガヤが仏教聖地として再興されるのは一八七〇年代のこと。当時はまだ独立国だったビルマ(ミャンマー)のミンドン王が巡礼者のためのレストハウスを建設し、七〇年代末には同じくビルマ仏教徒の手によって大塔の修繕事業が始められる。一八八一年からは英国インド政庁もブッダガヤ大塔の修復と周辺の発掘事業に乗り出し、現在我々がインドで目にする壮麗なブッダガヤ大塔が復元されたのである。

しかしその一方で、当時のブッダガヤはシヴァ神信仰の聖地としてヒンドゥー教徒の参拝を受けていた。興然は日本に向けた書簡に曰く、「……予の尤も嘆じるは此の地淫猥の風盛んにして純正の倫理行われざるに在り、彼れ等一般人種が常にマハーリンガンと名けて男根を崇とび之を模造に製し頻りに敬礼するの妄迷は嘆かはしき次第なり」(『傳燈』第十六号、一九九一年四月二十一日)釈迦成道の仏教根本聖地に異教徒が跋扈し、男根の象徴であるシヴァ・リンガが祭られている事態は、潔癖な比丘である興然やダルマパーラにとって耐えがたい冒涜に感じられたことだろう。

Bodh Gaya - Om Lingam and Cobra

さらに困ったことに、ブッダガヤ大菩提寺を所有していたのはマハンタ(Mahant)と呼ばれるバラモン階級の領主であった。イスラム教徒による破壊を受けて荒廃していたブッダガヤに、ヒンドゥー教シヴァ派の僧チャイタンニヤが居を据えたのは十八世紀の初めのことだ。その弟子マハーデーヴァは広い尊敬を集め、イスラム教徒の王Shahalumより大菩提寺に属する二村の土地を与えられた。それがブッダガヤ周辺を支配する神権領主ともいうべきマハンタ(インド最貧と謂われるビハール州の、当時は二番目に裕福な地主)のルーツである*56。

筆者も一九九九年にブッダガヤを旅行した際、このマハンタの邸宅を見学した。周囲に拡がる貧しい農村風景には不釣り合いな巨大な白亜の城壁は、かつての権勢を偲ばせるに充分な迫力であった。マハンタの邸内には黄色いターバンを巻いた歴代マハンタの肖像画が飾られており、中庭を望む一角には、彼が領内政治を取り仕切った白豹の毛皮をあしらった玉座が置かれていた。若いガイドに釣られて邸内の屋上まで上ると、そこではがりがりに痩せたバラモンの老人が昼寝の最中で、ガイド氏によれば、彼こそが何代目かのマハンタだということだった。ホントかね?

さて、そんな根深い事情を知るや知らずや、約二カ月後、ダルマパーラと興然はガヤ市の行政官G・A・グリルゾンから、大菩提寺を当時の日本円にして五千円程度で買い取ることが可能だとの言質を得ていた。ダルマパーラはそのうち四千円相当を得るためにビルマに向かい、興然は残りの千円を日本から送るよう雲照などに書簡で訴えた。

ブラヴァツキーの訃報──ひるがえる仏教旗

ビルマからの帰途、ダルマパーラはロンドンでのブラヴァツキー夫人の訃報を聞く。「この損失は取り返しがつかない」ダルマパーラは衝撃を受けていた。日記に曰く、

 人類がこの損失を感ずるであろう。精神世界はそのもっとも親愛なる支持者、ガイド、教師を失った。誰が彼女の代わりを務めるというのか。私は彼女がこんなに早く死のうとは少しも予想していなかった。もしも神智学協会が生きていて役に立つなら奥義部(秘教セクション)は続けられるに違いない。しかし誰がこの世界とマスターたちを結ぶ代理人となるであろうか?

*57
Helena Petrovna Blavatsky (1831-1891)

悲嘆に暮れる間もなく、ダルマパーラは彼自身のミッションを遂行せねばならなかった。マドラス経由でスリランカに戻ったダルマパーラは、五月三十一日、スマンガラ大長老を総裁、オルコット大佐を理事長に担ぎ『ブッダガヤ大菩提会(Buddhagaya Maha Bodhi Society)』を設立した。保守的なセイロンの教団は相変わらず腰が重く、ダルマパーラは聖地ブッダガヤに同行する僧侶を見つけることすら困難を感じた。しかしその手の困難はもう慣れっこであった。彼はくじけずタイやビルマの教団にも同様の呼びかけを行い、七月中旬には四人の僧侶をブッダガヤに派遣することに成功した。

四人の僧侶がブッダガヤに到着した翌日の夕刻、奇しくも明るい満月がガヤーの空に昇ろうとしていた。約七百年の空白を経て、仏教復興の旗は再びブッダガヤにひるがえったのである。

日本でも燃え上がった仏蹟復興運動

ダルマパーラと釈興然の呼びかけに応える形で、日本でもブッダガヤ仏蹟復興の機運が高まった。興然の師僧であり、当時は仏教界の長老格の地位にあった釈雲照はその中心で活動していた。雲照はブッダガヤにいる興然から送られた、「……インド大陸は已すでに婆羅門徒のみとなり、全く仏教は絶えたり。然れども此「仏陀伽耶」の四周に於て甚だ秘密曼陀羅及び秘密の尊体三形等累多あるを見出せり。然らばインドに於て秘密仏教(真言密教)を再起せんとするの感は、予真に希望に耐えず。」*58との報告に強く惹かれたのだ。

仏教ジャーナリズムの紙上においてもブッダガヤ復興運動はセンセーショナルに扱われ、「釈尊の故郷への報恩」を訴える論説が日本人のインド天竺への遠い憧れをかき立てていった。オルコットの来日時、彼と仏教をめぐって〝論争〟をした川合清丸は、『印度佛蹟興復会に賛成を請ふ書』と題した論説のなかで、「野蛮の宗教」「未開の道徳」たるキリスト教徒が聖地恢復に注ぐ情熱と比較して、仏教徒に次のような檄を飛ばしている。

 我が仏教は宇宙の真理なり。世界の文明なり。人天の模範。賢聖の神髄なり。一念以て極楽国に往生すべく。一超以て如来地に直入すべし。かくの如き大恩大徳をこうむりながら。此の仏蹟興復に粉砕せざらば。異教徒に蔑笑せられん。外邦人に唾棄せられん。語を寄す本邦十万の僧侶諸師よ。熱血滴々を絞り出して。以て生死を救われし仏恩に報いられよ。また四千万の信徒諸君よ。赤心片々を掴み出だして。以て未来を助けられし仏徳に答えられよ。根本の仏蹟を興復して。正法の中心を確定するの日に至らば。必ずや南北の仏法を円融して。東洋の中心を合同する端緒を開かん。南北の仏法を円融して。東洋の人心を合同するの節に至らば。必ずや藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの機軸を立てん。藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの運に至らば。必ずや赫々たる仏日を掲げて。欧米諸州を普照するの基礎を定めん。

*59

『国際仏教会議』の開催

明治二十四(一八九一)年九月には、日本でも正式に『印度仏蹟興復会』が設立された。そして真言宗僧の阿刀宥乗が興復会の使者として大菩提寺買収資金一千円の浄財を託され、セイロンへと旅立った。十月三十一日、ダルマパーラはブッダガヤで『国際仏教会議』を開催し、セイロン・中国・日本・チッタゴンの代表が出席した。日本の代表は興然と前述の阿刀宥乗、徳沢智恵蔵であった。彼らは会議の席上、「日本の仏教徒には大菩提寺をマハンタから買い取る意志がある」旨を表明した*60。

この会議ではマハンタからの寺院買い取りのほか、仏教僧院の建設のための寄附金募集、仏教の宣伝の確立、聖典のインド地方語翻訳といった事項が決議された。会議の当日、ブッダガヤにはちょうどベンガル副知事が訪れていた。だが副知事は会見を求める仏教徒の要請を拒否したばかりか、大菩提寺買い取りに関する仏教徒の決議に対しても、前述のグリルゾンを通じて否定的なメッセージを伝えてきた。 当時のマハンタであるヘーム・ナラヤン・ギリ(Hem Nārāyana Giri)は仏教徒に対して好意的だったが、翌明治二十五(一八九二)年、マハンタに就任したクリシュナ・ダヤル・ギリ(Krishna Dayal Giri)は仏教に反対の立場をとり、ダルマパーラ率いる大菩提会に脅迫や暴行を仕掛けるようになった*61。

ブッダガヤに「日本の野望」を見た植民地当局

明治二十二(一八八九)年の最初の訪日以来、大日本帝国の熱心な称賛者となったダルマパーラは、金剛座(釈迦が悟りを開いたと伝えられる場所。かつてオウム真理教の麻原某が上がり込んで現地仏教徒の激怒を買った)脇の菩提樹の下に仏教旗と並んで日章旗を掲げていたという。そんななか、イギリス植民地当局を代表するベンガル副知事とその一行がブッダガヤを訪問したのだから、「その光景は彼らに日露問題のみならず、日本人がブッダガヤをインド及び、アジア全域における、野望の槍の穂先として用いるかも知れない事」*62を疑わせたとしても、決して不思議ではなかったろう。

ダルマパーラは当初、大菩提寺敷地の買収に楽観的な見通しを立てていたが、実際に英国当局の仲介でマハンタとの交渉にあたると見解を改めざるを得なかった。ブッダガヤの聖地をめぐっては、英国当局、マハンタ、運動内で主導権を狙う輩などの入り乱れたドロドロとした思惑が渦巻き、ダルマパーラの周囲にもその後さまざまなトラブルが絶えなかった。ブッダガヤ復興運動はダルマパーラがその活動の初期に取りかかった運動だったが、ついに彼の死に至るまで達成されることはなかったのである*63。

さて、日本においてインド仏蹟復興運動が盛り上がりを見せていた明治二十四(一八九一)年十月末、「白い仏教徒」オルコット大佐は再び日本を訪れた。熱狂的な歓迎を受けた二年前の日本訪問に比して、オルコット二度目の来日に関する資料はほとんど残されていない。この二年の間に、日本仏教のオルコットへの評価は驚くほどに変化していたのだ。


註釈

*55 ブッダガヤ復興運動の開始当初、ダルマパーラは大乗仏教に傾倒していたという。興然は雲照に宛てた書簡のなかで「ダンマパーラ居士は……今全く小乗教を脱し大乗に趣向せり……」と報告していた。(『浄土教報』第七十四号) 彼はまた「南方仏教は小乗に属するというモニエル・ウイリアム卿の意見に反対し、『セイロンの仏教は大乗の最古の派に属する』と逆のことを言い、ただ『十八の分離した派、すなわち長老派の分派は不完全な教理を教えたので小乗の中に含まれていた。』と主張」していた。最近邦訳の出た鈴木大拙『大乗仏教概論』(佐々木閑訳 岩波書店、二〇〇四年)にも、ダルマパーラのこの説が紹介されている。彼が『アナガーリカ(Homeless)』として生き、正式な出家をしないまま晩年まで独特の宗教生活を送った背景には大乗仏教の菩薩思想からの影響を見て取ることは難しくない。彼が傾倒したブラヴァツキー夫人は大乗仏教に神智学と同様の「太古の叡智」を見出していたから、ダルマパーラ本人には大乗仏教の教理に対する抵抗感はなかったはずだ。しかし、アナガーリカという半僧半俗の修行者のあり方は、パーリ仏典の過去仏伝承にも見出せるものであり、また菩薩道の実践も上座仏教の体系に組み込まれている。出家主義以外の仏教実践をことごとく「大乗仏教」に帰そうとする言説は、むしろ日本の大乗仏教の側の「偏見」とはいえないだろうか。アナガーリカ・ダルマパーラは、テーラワーダ仏教という大伝統の胎から生み出された、時代の子であった。

*56 木村日記「佛陀成道の霊地佛陀伽耶と其復古運動」(『日印協会会報』第六十七号、一九三九年四月)。 なお、佐藤良純「ブッダガヤ寺院法をめぐって」(『パーリ学仏教文化学』1(1-1)、パーリ学仏教文化学会、一九八八年)には、ブッダガヤ大菩提寺の処遇を定めた一九四九年のビハール州法「ボードガヤ寺院法」制定に至る紛争の経緯が詳しく紹介されている。

*57 〝Flame in Darkness〟p64

*58 『浄土教報』第七十四号、一八九一年六月五日

*59 『浄土教報』第九十四号、一八九一年十二月二十五日および、『川合清丸全集 第九巻』川合清丸全集刊行会、一九三二年、一五三〜一六三頁

*60 『現代スリランカの上座仏教』四八二頁によれば具体的には浄土真宗の西本願寺当局が大菩提寺とその周辺をマハンタから買い取る意思を表明したという。

*61 佐藤良純「ブッダガヤ寺院法をめぐって」

*62 〝Flame in Darkness〟p67

*63 ブッダガヤの管理をめぐる宗教紛争は二〇世紀を通じて解決しなかった。大菩提寺の仏教徒への管理移管問題はガンディー等ヒンドゥー教徒による支持も得ていたが、結局インド独立後まで持ち越された。一九四九年五月にはビハール州制定のブッダガヤ大菩提寺管理法に基づき、仏教徒とマハンタ(ヒンドゥー教徒)双方の代表からなる『ブッダガヤ大菩提寺管理委員会』が組織された。しかし、その人数構成はヒンドゥー教徒四名、仏教徒四名とビハール州ガヤ地区長官(ヒンドゥー教徒)の九名が管理委員を構成する形になっており、仏教徒の最大の聖地が実質的にヒンドゥー教徒主導で管理されるという状況は改められていない。大菩提寺を仏教徒の手に完全に奪還するための裁判闘争と大衆運動は、いわゆる「ネオ・ブディスト(インドで徹底的な差別にさらされてきた不可触民たちの指導者アンベードカル博士の指導のもとでヒンドゥー教から仏教に改宗した人々)」に引き継がれ、ブッダガヤに向けた大規模なデモ行進も度々行われて国際的にも大きな注目を浴びた。その運動の中心的指導者となったのは、日本出身の僧侶、佐々井秀嶺(アーリア・ナーガルジュナ)師(一九三五〜)であった。二〇〇四年十二月二十九日にフジテレビ系で放映されて大反響を呼んだ『男一代菩薩道〜インド仏教の頂点に立つ男〜』や二〇〇六年五月二十七日TBSテレビ系『世界・ふしぎ発見!』を観て、佐々井師の存在を知った方も多いだろう。入手しやすい佐々井師の伝記としては、山際素男『〈完全版〉破天~インド仏教徒の頂点に立つ日本人~』(光文社新書、二〇〇八年)、小林三旅『男一代菩薩道──インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺』(今村守之構成、アスペクト、二〇〇七年)などがある。


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