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15 マドラス寄席の長名話~パンディタを落語で泣かせた日本人|第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー|大アジア思想活劇

トゥティコリンからマドラスへ

前章では少々余談に興じすぎたが、ここからは野口復堂のインド旅行漫談に沿って進みたい。

さてトゥティコリン市内での熱狂的歓迎から一夜明けた十二月二日の正午。復堂先生は昨日のランドル馬車に乗り、午前中にホテルを出て停車場へ向かった。送別の群衆は昨日に倍しトゥティコリン市長も挨拶に現れる。出発時刻は正午。車窓から投げ込まれる花の雨のなか「左様なら」の声々に送られて、復堂先生はインド大陸初踏の地トゥティコリンを離れ、ダルマパーラとともに鉄路を南アジアの大都会、マドラスへの旅を続けたのである。

マドラス改名とタミル・ナショナリズムについて

マドラスは南インドのベンガル湾沿いに拡がるタミルナードゥ州の州都で、市域人口は二〇一一年現在で約七〇〇万人。近郊を含む都市圏では八六五万人もの人口を抱える南インド最大の都市である。一九九六年に「チェンナイ」と正式に名前を変えた。これも植民地時代の地名を現地語に変更せんとするナショナリズムの発露である(トゥティコリンも現在はトゥートゥクディと改称)。

ナショナリズムといってもタミルナードゥ州におけるそれは全インド的なナショナリズムとはちょいと毛色が違うタミル・ナショナリズムである。それというのもこのタミルナードゥは名前のとおりタミル人が多数派を占める州。タミル人はアーリア人インド侵入以前からインドに住まうドラヴィダ系民族の末裔と自任しており、ゆえに北インド「アーリア系」民族が牛耳る中央政権への反発も強く、「我こそは真のインド文明を伝えるドラヴィダ諸族の盟主なり」とインドにおいて国家内独立国の様相を呈している土地柄なのである。

タミル人といえば、スリランカで分離独立闘争を続ける少数派として紹介したので御記憶の方もいるだろう。人口約二千二百万人(※2021年現在)のスリランカ国内では少数派のタミル人だが、背後に控えるタミルナードゥ州の人口は約七千二百万人(※2011年現在)にのぼる。ゆえに南インド圏全体の勢力図からいえば、スリランカの多数派シンハラ人は圧倒的な少数派に転落する。事実一九八三年から二〇〇九年まで続いたスリランカ内戦において、LTTE(タミル・イーラム解放の虎)は全世界に散らばるタミル人コミュニティから上納された豊富な資金によって時に政府軍を圧倒するほどの武力を誇示した。その生々しい危機感がシンハラ人のアイデンティティを北インドの「アーリア文明」に結びつけ、そのアーリア文明の粋(と彼らが考える)「仏教」を信奉することへの自負心へと駆り立てる。いずれにせよ、一八八八年復堂先生のインド旅行の時点では、タミルもシンハラも同じく、大英帝国のくびきの下で植民地支配の悲哀を味わっていたのであるが……。

7th century Sri Kailashnathar Temple Kanchipuram Tamil Nadu India

ついにオルコットとまみえる

閑話休題。車中での逸話は割愛するとして、マドラス駅に到着した頃には翌日も午後八時になっていた。マドラスもやっぱり歓待ムード一色で、復堂は群衆から手首が取れるほど握手されたのち、ようやく身は馬車の中、海岸沿いに南へしばらく揺られるうちに、辿り着いたのはアディヤールの神智学協会メインホールの正面。従僕にランタンを照らさせつつ、各国のデレゲートを率いて階段を降り来り、復堂の手を取りし白髭の老爺こそ、神智学協会会長のオルコット大佐であった。身重の新妻に後ろ髪引かれつつ、決死の覚悟で日本を発ってはや三カ月にも届かんとした十二月三日夜、復堂先生はようやく最終目的地に達し、最終目的人物にまみえたのである。やれやれ。

「ちょうど支倉六右衛門が、主人伊達政宗の使節としてローマに着し、法王に面会した時は這麼こんなものかと思はされた。しかし復堂は六右衛門のように法王の足は嘗めなかった。」

オルコットの手記にも、「十二月三日、仏教のため私を日本に招聘しようとしている愛国的日本人の組織の一員であるノグチ氏が(アディヤールに)到着した」(ODL Vol4,p75)とあっさり記してある。劇的な出会いの瞬間ではあったがもう夜は更けている。「今夜はお疲れであろうから、いづれ明日」オルコットは従僕に案内させ、復堂を宿泊にあてられるコーナァ・バンゲロー城へ導いた。

「言わば角矢倉、海と川との交叉点、涼しい上に眺望絶佳、八角の客室、四角の寝室、いずれも石造、窓を開れば上には梟フクロウの鳴き声、下には岸打つ波の音、之れへ月でも出れば阿部の仲麿の涙を催うしたであろうと云う淋しさ。」

いまも復堂が滞在した同じ場所に広大な庭園付きの本部を構える神智学協会。一九九九年の一月、マドラスを訪うた筆者は、無理を言ってここの図書館を利用させてもらった。帰り道、バス停からすし詰めのバスに乗り込むのも気が滅入って、アディヤール川河口を望む橋にしばし佇んだ。復堂先生もきっとこんなふうに、異国の淋しさを噛みしめていたのだろうか。アディヤール川の河口には白い海鳥が群れ、ベンガル湾が青紫にゆっくりたそがれてゆくさまは確かに絶景であった。ただし、川面から立ち上るヘドロの悪臭には閉口したけれど。

アディヤール神智学協会本部のメインホール
メインホールの内部には諸宗教の教祖とそのシンボルが並ぶ。中央に見えるのはブッダのレリーフとアニー・ベサントの胸像。

オルコットの牛車

無事アディヤールに到着した野口復堂(善四郎)。これからしばしの間、極東からのスペシャルデレゲートとしてマドラス中を席巻するのである。アディヤールでの初めての夜もなかなか波乱含みだったが、先を急ぎたいので割愛。さて翌朝ウエイターが持ち込んだ朝食をバンゲローで終えた復堂先生、メインホールでオルコット及び欧米各国の協会代表と会見し、昼食ののち神智学協会の広大な庭園を案内された。

「邸の面積が二十七英反エーカー(※約109,269㎡)で、日本の三万三千坪あるので随分広いもの。これの中央にメイン・ホールがあって、数十のバンゲローが配置よく緑樹と共にこれをかこっているのである。邸内に馬車用と乗用との馬が合計二十頭と、その外象の孫の様な大牛が四頭いる。これは、二頭宛列んでつまり四頭で、オルコット翁の印度内地旅行用の大車を牽くためである。大車は三層に組立てられ、上層は書見室兼客間、中層は寝室、下層は厨房で便利極るもの。復堂はオルコット氏に向って、『ペルリに次いで貴国より日本に来りし総領事のハルリスは下田から江戸へテーブル椅子付きの十二人肩の駕かごを拵こしらえしが、とても貴下のこの車には及ばぬ』と言えばオ翁は白髯に波打たせて大笑した。」

しかしまぁ、つくづく牛車に縁のある旅行である。

インドの牛車

インドで落語「長名話」を披露

復堂先生の南天武勇談には興味が尽きない。最初のお題は「長名話」。復堂が世界史上初めて、インド人を落語で沸かせ、そして泣かせたという摩訶不思議なお話である。

野口復堂のマドラス神智学協会滞在中、晩食は必ずメイン・ホールの大食堂で各国の議員とともに、オルコット会長をホストにして食する決まりとなっていた。そしてデザート・コースに入るや、三、四名の議員が各々自国の珍談をテーブル・スピーチとするのが恒例で。復堂先生もたびたびで話も種切れの一夜、前が五、六人あるから「今夜は大丈夫」と安心して食卓に就いたのだが、折悪しく前の二、三人が事故や病気で欠席していたのでさあ大変。復堂先生は否応なしにスピーチをやらねばならぬ羽目となった。もはやお隣まで順が来てお隣は喋り出しておる。

「復堂の番は刻々と迫って来る。この場合仮病を使ったり逃げたりしては復堂一人の恥辱ではない、日本の恥辱である、是非何か喋らねばならぬと決した時に、人間窮すれば通ずの諺通り、頭に浮かんだのがこの長名話であって、これは復堂が書生時代に京都は新京極六角の笑福亭という木戸銭四銭の落語の定席へ行ったところ、煙草を輪に吹く事の名人で梅香という落語家がやった話で、その筋を言って見ると、

夫婦の間に男の子が生まれて、めでたい事は神主と、神主さんに名前をば付けて貰ったが、まもなくその子が死んだので、今度は逆縁起と寺へ行って頼んだところ、和尚が付けてくれた名が陀羅尼品の始めから百四十五字だけの『アニマニマニママネ・シレシヤリテ・シヤミヤシヤイ・タイセレテモクテモクテ・アイシヤビソイレヤビ・シヤヱアシシヤエ・シヤミヤアロキヤバシヤビシヤニ・アベンダラネビテ・アタレデハレシユテ・ウクレムクレ・アラレハラシ・シユギヤシアサレマサレビ・ブダビツキリヂツテ・ダルマハリシユデ・ソギヤネクシヤネ・バシヤバシヤシユダイマンダラー』この長名を夫婦夜業を休んで暗記にかかる。隣の婆さんもその仲間に這入る。

この子が学校に上がることとなり、先生や同級生がこの長名に煩わさるる大滑稽があって、最後この子が古井戸に落込み、それを友達がその子の両親に知らす。母がこれを取りついでその父に告げる。父は井戸へ駆け付け、大声にその子の名を呼ぶと井戸中で『アダブダブダブ』と落ちになるのであるが、陀羅尼品を知って居る者はよいが、知らない者には興味が薄いから、復堂がこれを英語に直して語ったときに、この下げをイソップ物語風に、Too late即ち『既に遅かった』としようと心得、いまや下げを付けようとする瞬間、墺州(オーストリア訳注) の男爵夫人がお先にToo lateとやってくれたので、復堂はThat's right『その通り』と言った時の拍手喝采はスピーチのレコード破り」であった。

野口復堂(スペシアル・デレゲート・ミスタア・ノグチ)

インド随一の梵語学者を梵語で泣かす

「会長オルコットは立ち上がり、『日本スペシアル・デレゲート・ミスタア・ノグチ恐れ入るが、今夜もう一度その話をしてもらいたい、明日まで待てない、今夜是非聞かせたい一人がある』とて、三哩余隔たった所に住んで居る一老翁を急馬車にて迎えて来た。老翁とは誰れである。広き印度に三本と指を折らるる梵語博士エン・プンヂット・バッシヤチャリヤで、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の梵語博士で、南條、高楠両博士の師匠たる英人マックス・ミューラー博士のまた師匠である。

……オルコットは復堂をこの老博士に紹介して、今夜博士を招きし所以を述べおわり、『プリーズ・リピーユ・エゲーン・ミスタア・ノグチ』即ち『野口君どうか今のをもう一度』と会長が請うたが、案外なことは長名に至って、博士がその他の人々の如く笑うかと思えば、笑わないで反対に泣いた。復堂の話終わるや、博士は復堂に向かって更に握手を求め、涙と共に語り出した。

『釈迦牟尼世尊の舌は三十三天の上に達す、これはスペース即ち空間であって、この空間を横に地上に直して三千三百哩以外の日本に仏の舌は達した。これをタイム時間にすれば支那を通じ、朝鮮を経るに三千三百年を要して、日本へ仏の舌は達した。しかるに広き五天に今日この舌がない。今野口君が語られし梵語はサッタルマ・フンダリキャスートラ即ち法華経の陀羅尼品で印度最古の梵語である。それを日本坊間の落語家なる卑しき者すら口にして居ると聞けば、如何に印度の古き教が日本に弘まり居るかが知れて、これと反対に如何に印度に古き教が廃り居るかが分かって我々インド人は嘆かざるを得ぬ。美しきは日本国。今やこの老翁バッシヤチャリヤが野口君の口より聞きし梵語は釈迦牟尼世尊の口より聞きしと同様、三千年前の響きを耳にした。諸君豈に有難からずや』と涙と共に謝辞を陳べおわりし時は満場皆襟を正しうした。

妙法蓮華経陀羅尼品第二十六
妙法蓮華経陀羅尼品第二十六

翌朝のマドラス・ミラーという新聞がこの実現を詳しく報じた時には満都沸き騰つの人気。マドラス総督ロード・コニムマラは今日まで度々復堂を招待されたが、今回は特に復堂の長名話のために長名話会を官邸に開かるる事となり、……その日の出来は上々の上、その満足思うべしである。後年(復堂が)米国の宗教大会(シカゴで一八九三年に開かれた)へ招かれしも、この長名話のお陰である。米国では復堂を以て梵語の本場しかも三大梵博士の随一を梵語で泣かした大々梵語博士となって居るのである。その元はと尋ぬれば、前にも言った通り木戸銭四銭の落語から来て居る。物も売り時売り場所を得るとかくも値高に売れるものである。」(「四十年前の印度旅行」より)

「長名話」にマドラス中が騒然

どこで話の腰を折ればよいものかと迷った末、一気に御紹介したが、この「長名話」落語好きの読者ならずともお気づきだろうが、落語の前座話で有名な「寿じゅ限げ無む」のバリエーションである。とはいえ、東京育ちの筆者が知るところの「寿限無寿限無 五劫の摺り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末風来末 食う寝るところに住むところ ヤブカラコウジのヤブコウジ パイポパイポ パイポのシュウリンガン シュウリンガンのグウリンダイ グウリンダイのポンポコナー ポンポコナーのポンポコピー 長久命の長助」という長名とはずいぶん違っている。

はて関西には実際に法華経の陀羅尼品を「寿限無」の代わりに使ったネタがあったのだろうか、と思って調べてみたら、実際にこれがあったのである。次章ではその「長名話縁起」を御披露したい。



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