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12 野口復堂 セイロン珍談集|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

スマンガラ大長老との会見

もうしばらく、野口復堂のセイロン滞在記にお付き合いのほど御辛抱願いたい。さて、アラブの英傑アフマド・オラービーとの印象深き邂逅の、後か先かは定かではないが、復堂の口上に依ればその次にあたる訪問先は、セイロン仏教界の重鎮にして仏教復興運動の大イデオローグ、シャム派(貴族派 由来は後述)のスマンガラ大長老である。日本仏教の使者としてセイロンを訪れた復堂。当然ながら島の仏教関係者への表敬訪問に忙しかった。

二人の会見がなされたのは、スマンガラ大長老が学長を務めるコロンボはマーリガーカンダのウィドヨーダヤ学院(Vidyodaya College)。いまも、上座仏教僧侶の教育機関として名門の誉れ高い。筆者は一九九九年の二月にスリランカを旅行した際、このウィドヨーダヤ学院も見学した。

広い中庭を囲む学院の敷地内にはスマンガラ大長老の遺灰を納めたストゥーパと、いかめしき面魂のスマンガラ像が鎮座まします。寄宿舎にかかる物干しにオレンジ色の僧衣がたなびいているあたりはお坊さん学校ならではの風景。ひょいとぶしつけに教室を覗けば、スリランカ各地やタイ・ミャンマーなどから留学してきた小僧さんたちが、算数の授業を受けている最中で。照れ臭そうに、はにかんだ笑顔を返してくれたものだった。さて、話は明治二十一年に戻る。

Photograph of Most Venerable Hikkaduwe Sri Sumangala Thera.

曰く「一見生ける羅漢像」。大長老の肩書きにふさわしい貫録を漂わすスマンガラ師にまみえた復堂。挨拶もそこそこにマハーヤーナ・ヒーナヤーヤつまり大乗仏教・小乗仏教の教理問答にしばし花を咲かせた。大長老がごそごそと取り出しましたるは、以前もちょっと触れたパーリ語経典を記した貝多羅葉の束。「この葉を記録用に供せしは紙の発明以前よりの旧習で、之れに経文を書する否刻するのは長き針を以てし、刻し終ればアクラ樹の灰を馴鹿の油で煉りしものを擦り込み、米の糠を以て葉面を拭い去れば、刻まれし文字のみ黒くのこり、他は糠と共に去って字形は明瞭となる」若きダヴィッド青年がブラヴァツキーの助言でパーリ語学習を始めた時に用いたのも、この貝多羅葉の経文であった。

コロンボで出会った日本人僧侶

スマンガラ師との教義問答はいささか退屈だったのか、復堂センセイ、自らのインド旅行記ではあっさりすっ飛ばしている。その代わり彼を感動させたのはウィドヨーダヤ学院に留学していたひとりの日本人僧侶との出会いであった。極東から遠く離れたセイロンの地。ひとり根本仏教の奥義を究めんと修行する日本人。面会はかなわぬものかと請う復堂に、大長老は「ならばどうぞ」と彼を学院の中庭へ導いた。すると、

「周囲の森林中よりナモタサー・バカバトウ・アラハトウ・サンマサン・ボダッサーと哀れな声は蟲のすだくが如く、これは生徒が経文諳記の実習をやって居るので、それ等が大僧正の庭に出られたを見て、バサバサと背よりも高き草を分けて、こゝやかしこより現われ来り……」

復堂一行を中心に、たちまち褐色坊主の円陣ができた。野口の訪ねし日本人僧の名は釈興然(しゃく こうねん、一八四九〜一九二四)。真言宗に属し、横浜は三会寺住職を務めていた。彼は帰国後、日本における上座仏教の開祖となるのだが、その経緯に触れるのはまだ少し先として。「この中に興然も居るから御面会下さい」大長老の言葉に復堂は戸惑った。なにせ、

釈興然

「興然師の容貌は顴骨ほほぼね高く口は大きく出歯であると云う事だけは元より聞いて居ったが、未だ面会した事はないので、今面前に数十の圓えん顱ろを列べられた所で、いづれも色黒々頭髪は元より眉迄も剃落し、偏袒へんだん右う肩けんで五百羅漢の蟲干の様、どうして興然師が見出されようや。復堂は大声に日本語で、『斯く申すは日本野口復堂であります。この中に釈の興然師が居らるゝ筈、どうか私の前迄お進み下さい』の声に応じて、素す跣足はだしの興然師は列を離れて進んで見えたが、なるほど顴骨高く反歯の大口、復堂の眼には訳もなく涙が流れた。」

野口復堂が決死の覚悟でインドを目指した明治二十一年、なんのことはない。セイロンには既に日本人僧侶が留学していたのだ。しかも留学僧は興然のほかにもう二人。ひとりは興然師と同じくウィドヨーダヤ学院の留学生の吉連法彦師。浄土真宗仏光寺派の僧侶で「この人は興然師の如く印度僧にならずして、俗服で下宿より学校へ通学したもの、却々の才物でオルコット氏二度目の来朝には通弁の労を取ってくれた人。惜しい事には才子多病、若死致しました。」そして「道が遠いのと何時電報が来てマドラスへ出発せねばならぬか分らぬので、本意を達しかねたは、当時ゴール港に独学して居られ、後に鎌倉円覚寺派の管長となられ、復堂と一緒に米国に往った釈の宗演禅師」である。

釈宗演(しゃく そうえん、一八五九〜一九一九)の名が挙がった。宗演は明治時代の財界人や知識人に対して幅広く感化を与え、夏目漱石の葬儀で導師を務めたことでも知られる禅僧である。『日本的霊性』などで日本近代思想界に異色の地位を占める鈴木大拙の師匠にあたる。明治日本を代表する高僧が、このときセイロンくんだりまで来て修行していたとはいかなる巡り合わせか。

Soyen Shaku, Zen Buddhist monk (1860–1919)

宗演は、若狭国(福井県)高浜に生まれ、明治三(一八七〇)年、十二歳で同郷の越渓守謙(えっけいしゅけん、一八一〇~一八八四)を師として出家した。その出家のきっかけは、実は跡継ぎとなることが定められていた兄の「身代わり」であった。「高僧エライヒトになれば天子様でも法の御弟子にすることができる」と道心篤き兄から聞かされた少年の決心は、はたして禅を近代日本の精神文化の顔にまで押し上げることになった。二十歳で今北洪川に参じた宗演は、二十五歳で印可嗣法。鎌倉円覚寺の俊英として将来を嘱望されていた。彼は沈滞する仏教界を憂い上京、慶応義塾に入学する。近代化の奔流を目の当たりにして自信喪失し、還俗までを考えた宗演に、励ましの言葉をかけたのは塾長の福沢諭吉であった。「志を変更してはいかぬ。むしろセイロンに渡って、仏教の源流を研究せよ」若者たりし諭吉翁のひと言で発憤した宗演は単身渡錫。オルコットが仏教に「改宗」した港町・ゴールにて貧苦にあえぎつつ仏教教理研鑽の真っ最中だったのである。

時は明治二十一(一八八八)年、セイロンと日本を結びつけた僧侶の留学ネットワークとその成立のいきさつと、釈興然らセイロン留学僧が辿った苦難の数々については章を改めて詳しく触れたい。

スリランカ仏教のあらまし

話は前後する。スマンガラ大長老を表敬訪問した復堂は、次に「平民的佛教の主脳」カルタラのスポーテー(スブーティ)大長老との会見に臨んだ。スリランカの仏教教団は、いずれも上座部仏教を信仰し、同じパーリ語三蔵を奉じているが、大きく分けて二つの流れと三つの宗派がある。宗派が違うとはいえ、端的にいえば創設にまつわるシガラミの違いであり、「御本尊が違う」だの「自力だ他力だ」といった日本仏教のごとき支離滅裂な対立はない。

先述のスマンガラ大長老が属したのは「シャム派(Siyam Nikāya)」と呼ばれる多数派である。時は十八世紀、キャンディ王朝の内乱や西欧列強の侵略によってスリランカでは仏教が衰微し、出家者の具足戒を守る比丘サンガが途絶えてしまっていた。有徳の僧侶も正式な出家儀式を受けることができず、沙弥(見習い僧)のまま留まることを余儀なくされた。そこで一七五〇年、比丘サンガ再興を願うヴァリヴィタ・サラナンカラ沙弥がキャンディ王国のキールティ・シュリー・ラージャシンハ王に働きかけて、同じテーラワーダ仏教国であったシャム(タイ王国)に仏教使節が送られる。一七五三年、シャムから招かれた十三名の長老比丘によって比丘出家のための授戒儀式が再導入された。サラナンカラ沙弥は晴れて具足戒を受けて、のちにスリランカの僧王(サンガ・ラージャ)となった。以上が「シャム派」の由縁である。この派は偉大なるサラナンカラお坊さんが後援者である王の干渉を排さなかったばかりに、スリランカの高位カーストであるゴイカマ(農民)カーストからのみ出家を認めるようになった。カースト差別を否定した仏陀の弟子が、出家教団内にカースト差別を持ち込むとはまったく理解しがたい話ではあるが……。

復堂がいまから会見しようとしているのは、貴族派のシャム派に対する庶民派、アマラプラ派の大長老であった。こちらはそのシャム派の閉鎖性に反発したサラーガマ(主にシナモン採取者や兵士)などゴイカマ以外のカーストの人々が、十八世紀末から十九世紀初頭にかけてビルマ(ミャンマー)のアマラプラに渡り、具足戒を受けて立ち上げた新興教団である。現存するスリランカの仏教教団は大きく分けてこの二つの流れに分類される。そのアマラプラ派からのちに分かれたのがラーマンニャ派で、大きなくくりの教団としては三つとなる。現在はさらに細かく分派が起こっているのだが、そこまでフォローしていてはきりがない。

Jaya Sri maha Bodhi

ちなみに、スリランカの仏教徒が比丘サンガ復興のために赴いたタイ・ミャンマーの仏教教団は、元はといえばスリランカから東南アジア各国に布教された「大寺派」の系統である。スリランカから樹を各地に株分けしたところで、本家の樹が枯れたので、株分け先から苗を持ってきてもう一度植え直した、というような話である。南アジアから東南アジアに拡がるテーラワーダ仏教の伝統は、戒律を共にする比丘サンガの相互交流を通して、社会情勢の変化に伴う消長をくぐり抜けて、「テーラワーダ仏教圏」の強固な同質性を維持してきた。テーラワーダ仏教の「保守性」とは断じて「停滞」の同義語ではなく、「保守のための革新」ともいうべき弛みなき努力の産物であった。

スリランカのカーストと上座部仏教の強度

不用意にカーストという言葉を使ったので、スリランカのカースト制度についても触れておこう。カーストといってもスリランカの場合、インド大陸に見られるごとき峻烈な差別制度として存在しているわけではない。だいいちカーストの最上位でたびたび名前の挙がる「ゴイカマ」はシンハラ人の約半数を占める多数派なのである。元来はキャンディ王国の領民として農業に従事していたゴイカマ・カーストの周辺にはさまざまな職能カーストが配置されており、シンハラ王朝時代の土地所有制に基づいた純然たる職能的棲み分けに近かった。

もちろんゴイカマのなかにもさまざまなサブ・カーストが存在したが、インドのように少数のバラモン・カーストがヒンドゥー経典の知識を独占し、よりよき転生への切符を未来永劫握っているというような重苦しいシステムは存在しようがなかった。「生まれつき」のバラモン・カーストに聖性を付与するバラモン教が主流派を占め、仏教など理性的な沙門宗教はついに傍流の地位に甘んじていたインド社会とは違って、スリランカにおいては仏教サンガが最高の権威の源泉であった。その仏教サンガは「出世間」の集団なのであって、そこでは俗世間の決まりごとたるカースト制度など、何の意味も持ちようがなかった。一時期、シャム派は滅びゆくキャンディ王朝(末期にはその統治が及ぶのは内陸部に限られていた)の権威主義を内面化し「出世間道」にカースト差別を持ち込むという「逸脱」を犯した。しかし、それを正当化する片言隻句さえも、彼らの依拠するパーリ聖典に見出すことはできなかったはずである。

スポーテーの戒律珍問答

ウンチクはそこそこに野口復堂の口上に戻そう。彼は汽車と、例によって牛車を乗り継いでカルタラの寺院へ向かった。

「特に牛車と言えば、御大葬の御ご轜じ車しゃの如く、悠々緩々たるものかと思えば間違いで、却々能く走るのである。さきに波戸場から霊智會支會に乗りし車の牛よりも今度の牛は小形でよく走る。鞭の代わりに馭者が梶に手をかけ、体を前に屈して、牛の臀しりを噛むのである。実に驚いた。坂道を上る時などは噛みづめである。……

さてお寺へ着したが、寺はいずれも同じく境内の最も清浄なる地点にダゴバと称し、仏舎利を納めたる塔を有し、これが日本仏寺の本堂に相当して居る。説教も法事も皆野天でやる。土地の小学校も皆野天であって、木の枝に黒板をつるし、教員も生徒も皆裸体で、日本も近頃これを真似て森林学校を始めたが、これは夏季だけで、印度は常夏の国故、学校も年中常夏森林学校である。仏教では今でこそ俗風を学んで何々大学何々宗中学なんて言って居るが、昔は壇林と言って居った。即ち印度の林間学校の意味である。

さてスポーテー大僧正に会って見れば、『あなたはスマンガラ僧正にお会いなされたそうだが、あの方は私を破戒僧だと言われるそうで、其理由は私が黒皮の手提カバンを携帯するからであって、仏具の中にカバンはない。僧侶の持つべきものでない。我々僧侶は金銭に生涯手を触れぬ。若し止むを得ぬ場合には、紙で手を包み之に触れる。それと同じく若しカバンを持たねばならぬ場合に際会した時は、手を紙で包むべきである。然るにスポーテーが手を紙で包みし事を聞いた事がない。全く破戒僧だと云うのだそうですが然うなると私も一言したくなる。仏僧が英語を使うのも破戒の一つである。なんとなれば英語で書かれた経文はない。然るにスマンガラは英語を巧みに話さるゝ、あなたは何うお考えですか』とこんな事を考える暇が僧侶の間にあるので、気軽に長生して世に遅れて行くのである。」

ランチタイムの椰子問答

さて、復堂がスポーテー長老の戒律話に付き合っているうち、ちょうど昼飯の時間となった。こちらも坊さんは「非時食戒(ひじじきかい)」があるので、ランチを御一緒にというワケにはいかぬ。

「大僧正は『私等とあなた方とは食事の時間が違う上に、寺にはあなた方へ差上る食物がない。こゝに居るのはこの寺の檀徒総代であって、この者の宅で昼飯を差上る事になって居りますから、御苦労でもこの者と御一緒に』とあったので、案内さるゝまゝ椰子やしの木の間を三四町歩かされた。

Coconut tree srilanka

ちょうど柱の多い青天井の座敷内を歩く様な心持ちで、椰子の樹は御承知の如く、幹の根より梢に至る迄ほとんど細い太いなく、しかもその植え方が数坪に一本の割合で行儀正しくならんで居って、財産の計算はこの木の本数の多少に依るので、例えば『五十本の分際で、千本の家と縁組するなんて、長持ちはしないぞ』の類である。日本で言ったら提灯に釣鐘の諺に相当する。

さて総代の家に着いて御馳走になったが、椰子の実から作った料理が多分を占め、魚類も少々あしらわれて有った。主人は日本に椰子無しと聞いて眼を丸くして驚き、然らば何を食して生きて居られるか、我等は椰子無くしては一日も生息すること能わず、醤油、味噌、油、酒及び清涼飲料を始め餅菓子の類に至る迄椰子の実より製造するのみか、幹は悉く建築材料、葉は悉く屋根葺の材料、一として廃る所はないと云う説明であった。

この時寺より予のために贈られた般若湯なるものを頂いたが、香ばしき珈琲の一種で、日本のお寺方で頂く般若湯とは全く別物で、日本のは酒と少しも変らず、又売て居る処も酒屋であって、桝売りもすれば、瓶詰めで売りもする。而して値段も酒と少しも変らぬのである。つまり酒である。唯名前だけ般若湯となるのである。あたかも妻君と同じものを坊守りとか大黒とか梵妻とか云うが如しである。」

変な仏像

食事を終えた復堂、お寺へ引き返すとチベット伝来という釈迦の涅槃像を拝んだ。しかしその仏像ときたら……。

Reclining Buddha at Linh Son Temple -- Santa Fe, Texas

「吹き出したくなる程可笑しい涅槃像で、白の大理石を以て造られ、三十二相は愚か一相も危ぶまれ、眼尻は下って、歪んだ口に紅をさし、頬杖突いて横に寝そべり給う格好は、女郎の昼寝の如く、其上に硝子の箱を蒙らせ、四脚の西洋テーブルの上に横えてある所は、恰も博覧会出品の膃肭臍(オットセイ)の干物を見る如くで、少しも尊敬の念は生じない。聞けば其仏像は西蔵チベットから輸入されたもので、元々あった結構な印度仏はマホメット教徒印度侵入の際悉く破壊されてしまって、以後仏師も無くなり、この島が蘭領となり、次いで今日の英領となりしも、鋳造や彫刻や絵画等の美術を奨励してくれるではなく、他国よりの輸入は止むを得ぬ次第であるとの事。」

宇源・源智の観音ご利益コント

コロンボ滞在中、復堂は中国は天台山の僧で杭州生まれの宇源うぎゃん、源智ぎゃんちゃんの二人と出会った。三年前に中国を出て陸路インドに入り、各地の仏蹟礼拝を終えてセイロンへ渡ってきたのである。極東の仏教国代表としては、この特志僧を歓迎せずんばあるべからずで、復堂が施主となり宇源・源智を招いた供養会が開催された。この供養会がまたケッサク。

「集った者の中には緬甸ビルマの僧、西蔵チベットの尼も居る。それで五箇国の仏徒の集りになる。正面には例の西蔵製の醜き釈尊像を安置し、一同立って散華の式を行うて居る最中、島の名物守宮ヤモリは無遠慮にも釈尊の頭や顔を匍い回る。支那僧二人は木魚と鉦かねを手にし、チンポン・チンポンと節面白く唐音で観音経の読誦。之が了ると復堂と支那僧との筆談が始まり、支那僧は酢と皿を請うたので、早速それを与えると、小さき紙の袋より砂の様な丸い細い貝を出し、それを皿の中へ入れ、スル〳〵と匍い回わらせて、天台山の観音は水田の蛭を変して此の貝となし、以て農民の苦を救うと書く。

馬鹿らしくて通訳も出来ぬが、復堂はこの時手品の口上に舞台に立って居るのと同じ場合に際会して居るのであるから、仕方なく其の通り通訳すると、西蔵の尼が最初に泣き出し、観音の霊験忽ちの中に現われ、こゝからも御用、あしこからも御用と仰せられ、瞬く中に一袋売り尽くした。支那はどこまでも支那式である。この貝は日光にも売って居る。平家蟹は壇の浦ばかりではない、ジブラルタルの海峡にも居る。つまりこの二僧は仏蹟礼拝が目的か、貝売りが本業か分らないが、礼拝兼商売と見て置けば間違いはない。

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