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トランス女性がスポーツに参入することは、「女性の権利」を侵害するのか?

スポーツとは、「女性」とは何ものなのか、強制的かつ侵襲的に審査され、定義され続ける世界

女性がスポーツに参入するようになって、主催側は様々なやり方で女性の身体を検めてきました。女性である根拠を性器に求める身体検査、染色体に求める染色体検査、そして現行のホルモン検査…

検査自体屈辱的なものですが、「基準外」の女性達は外性器の手術や不妊手術などの「治療」を求められ、生涯に亘って心身に傷を負うことになるケースもありました。検査者の前で裸になり、性器を見せ、「検められる」ーー。
染色体検査はどうか?人類は明確な境界でもってXXとXYに分かれているものなのか?そうではありませんでした。実際には性染色体もまたXXY、XXY、XXXY、XXYYと、多様な広がりを見せていたのです。

性器や染色体を検めることは、むしろ人類の前にその多様性について提示することになりました。
ではホルモンはどうか?「疑い」をかけられた選手は現在ではホルモン検査を受けることになります。
テストステロン値が高値を示す女性選手達は、アンドロゲン過剰症とされ、それが生まれつきのものであるにも関わらず、その特性によって苦境に追いやられてきました。
ある女性選手は「女性にしてはあまりに強すぎる」「タフすぎる容貌である」ことから検査の適用になりました。ある女性選手は検査後「インターセックス」であるとされ、陰核切除術・不妊手術を受けることになりました。自分がそのようにラベリングされる存在であったことをもちろん彼女は知りませんでした。
テストステロンの値や性器の形状や染色体だけが選手の身体能力を左右するわけではない中で、男女という区分に固執するが故に、体格に恵まれ、身体能力に長ける選手は検査を強いられ、そしてテストステロン値が高い女性や「インターセックス」とされた女性は女性選手としての道を閉ざされ、それが嫌ならば「治療」を選択せざるを得なかったのです。鍛錬によって研ぎ澄まされた身体能力を競う場である筈なのに、あるいは純粋な「強さ」を競う場である筈なのに、女性だけは平等性やその前段階として自らの身体を二分化された定義の一方に無理矢理押し込めることが求められているのです。

スポーツとは、走るのに、泳ぐのに、ジャンプをするのに著しく長けた人達が集結する場です。身体能力とは切り離せないものである筈が、女性に対してはこれほどのものが課されている。その一方で「女性」というものを「生物学」的に定義づけようとすればするほど、それが困難であることが露呈しているのです。
外性器が男性的であることも染色体がXYであることもテストステロン値が高いことも必ずしも身体能力を担保するものではありません。男性選手の中にはテストステロン値が低値の人もいます。そして男性に対してはこうした検査は一切求められていないのです。
優れたスポーツ選手は持って生まれた身体のみで勝負しているわけではないでしょう。皆、鍛錬を繰り返し、外部からのサポートを受け、持てる能力を可能な限り伸ばしてきた結果、優れた選手となっているわけです。
しかも疑いをかけられ、これらの検査のターゲットとなってきたのは、圧倒的に非白人の女性達でした。それは白人女性の身体を《標準》として位置づける、差別的な眼差しによるものです。

そもそもスポーツは歴史的に男性のものとされてきた経緯があり、女性スポーツとは男性のそれとは「程遠い・身体能力の低レベルなものである」という(偏見に満ちた)前提があり、だからこそ「女性枠」を設け、男性からの「程遠さ」を基準にしようというのが、この女性に求められ続ける滑稽な「女性であることの証明」だと思います。科学性も何もなく、ただ男性を表象すると考えられてきたもの、即ち精巣とペニスであり、XY染色体であり、一定以上のテストステロン値であり、それらに「近」ければ女性からの逸脱と見做される。スポーツは強い者が勝つというマチズモ、「男性性」の追求、でありながら、表象的な男性に「近づく」多様な女性を許容しないのです。

従ってこれらの検査は差別的かつ非人道的であるとして、国際人権団体などは検査をやめるよう求めてきました。

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https://www.hrw.org/ja/news/2020/12/04/377029

しかし、アメリカなどで一部の保守系団体や政治家がトランスジェンダー女性を排除する目的で、高校スポーツの大会などにおいても性器や染色体や性ホルモン値の検査をするべきだとの主張を始めています。
元々オリンピックなどではトランス女性に対して厳しい条件を与えていました。現在身体に大きな負担を与える手術要件はなくなりましたが、それでもシス女性に比べても厳しい条件が課されています。
他人に自分の性器や染色体を検められる。それによって「標準的な女性」かそうでないかを決められる。このことがどれほど屈辱的で苦痛で、シス/トランス関係なく人を傷つけるか、多分その保守団体の人々は想像もできないのでしょう。それとも、トランス女性だけはそんな目に遭っても良いと言うのでしょうか。

日本でもそうした主張をする人達がいますね。「生物学的性」が未だに絶対的なものであると考え、それによって人は二分され得ると信じる人達です。その人達は検査によって「シスに紛れ込むトランス」が炙り出されるのだと信じているのでしょう。しかし、実際には、その検査はシスにとっても苦痛に満ちたものであり、しかも性別の境界とは非常に曖昧なものなのです。
その人達は言います。「あの選手を見ろ。体が大きく、身に纏う筋肉は桁違いだ。周りの女性選手がまるで子供に見える。周囲を危険な目に遭わせるのではないか。あれでは"普通"の女性選手は可哀想だ
しかし、このような言葉は、オリンピックなどの競技大会に出場し、女性ではない疑いをかけられてきた選手達も、ずっと浴びせられて来たものなのではないでしょうか。その選手が、本当はシスであるかもしれない可能性はどうでも良く、ただトランス女性の《脅威》を喧伝したい人達に、屈強な選手の見た目は利用され続けます。

"「正常な女性」とは教科書的な形状の性器を有し、染色体はXXであり、テストステロン値が低く、男性よりも非力で小柄な存在である。それが「女性」というものである。"

この定義を押し付けられた結果、他でもない女性選手が女性を《証明》する為に、精神的にも物理的にも痛めつけられる歴史を歩んできたというのにです。身体や精神に《正常》なあり方があると信じ、それを求める思想。そこからの逸脱を許さない思考。これは優生思想につながるものであり、残念ながらスポーツとは本来的に優生思想に深く冒された世界なのです。

トランス女性を排除することに懸命になる前に、スポーツという世界が構造的に孕む差別や偏見、暴力性について踏まえ、「性別の神話」に囚われることをやめる。その上でこそ初めて「公平なルール」について議論することが可能になるのだと思います。それはスポーツ以外の世界においても言える話です。

私はトランス差別に反対します。

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