ダンゴムシがおすき
我が家には小1と2歳の男児がいるので、
家族の会話のなかに「ダンゴムシ」というワードが出てくる確率はおそらく、一般家庭の2倍から3倍にはなると思われる。
いや、もしかしたら5倍かもしれない。いやはや案外10倍か・・・。
そう思いあがる程度には、毎日さまざまな組み合わせで、なにかしらダンゴムシについて話をしている。
先週は保育園からのお便りに、
「次男くんはお部屋で観察しているダンゴムシがすきで、園庭であそぶたびにきれいな葉っぱを見つけて来てくれます」
と書いてあった。めっちゃかわいい!と思いそれからひとしきり次男にダンゴムシについて質問した。
一昨日は夫が、
「ダンゴムシって節足動物なんだよな~、カニやエビと同じなんだよな~」
とぶつぶつ言っていた。そのときは「へえ~」と返した。
昨日はキッチンからリビングへ歩いているとき、右足のひとさしゆびに違和感を感じて見下ろすと、なぜかダンゴムシがいた。
ゆびわのようにくっついて、行き場を失ってもじょもじょしている。
わたしが驚いて「え、ダンゴムシ!?」と声をあげると、テレビを見ていた長男と次男がうれしげにわらわらと寄ってきて、ひとしきり観察し、窓の外の植木鉢に離してやった。
次男は「ダンゴムシさんばいば~い!またきてね~!」と叫んでいた(かわいい)。今日、次男はまだその出来事を覚えていて、「ダンゴムシさんまたきてくれないかな~、きてくれたらいいな~」とつぶやいていた。
我が家の男児たちは、ふたりともダンゴムシがすきだ。
* * *
ちなみに、わたしはダンゴムシが嫌いではない。
さらっとしているし歩みが遅い。なにより屋内にいることはめったにない。ゴ〇ブリやムカデに比べてはるかに共存できる。
ただ、なぜかわたしは、ダンゴムシを見るたびにフランツ・カフカの『変身』を連想して、なんともいえない気分になるのである。
ときにはフランツ・カフカの『変身』からさらに手塚治虫の『ザムザ復活』も連想してしまい、さらになんともいえない重苦しい気分になる。
きっとわたしは、不条理というものがおそろしいのだと思う。
成長するにつれて、この世の中には不条理というものがあることを知ってしまったから。
そして、わたしには幸運なことに、たいせつな人たちがいるから。
だから、不条理な痛み、苦しみ、かなしみが、家族や友人や親切な隣人や自分自身に降りかかることに、常におびえている。
それは日常のすぐそばにぽっかりあいている落とし穴みたいなもので、どんなに目を凝らしていても落ちるときは落ちる。そう思っている。
そう思っているからこそ、不条理とはまったく無関係にも見えるダンゴムシから人の世の不条理を連想して、重苦しい気持ちになったりするのである。
わたしの脳もご苦労なことである。
* * *
ダンゴムシでおおよろこびする息子たちは、まだそんなものが世の中にあることを知らない。
母であるわたしは、彼らがこのさきもずっと不条理な出来事に遭遇しないまま、しあわせに生きてくれればと願う。
でもあるものはあるのだ。いずれ知ることになる。避けては通れない。それはしょうがない。
だからこそ、もしものときには自分らしく対処できるようになってほしい。
そんなことを考えながら、ダンゴムシの屋内への侵入経路を探しています。